いなくもう今ごろは千鶴子の入浴の時間だった。矢代は顔を水面につけるようにして、湯気の足の立つ比較的曇らぬ部分から透してみても、忽ち濃霧が上から舞い下って来て人の姿をかき消した。霧は絶えず湯の波に突き上げられてはまた水面にまき返り、早い速度でぐるぐる室内を廻っているようだった。雪の山が上方の稀薄な霧の部分に、射し出た朝日を受けて高く薄紅色に染っていた。
 山際の深い藍色の空は厳しいほど鮮かだった。矢代は湯の縁で足を抱き、空を仰いでいると、ふと千鶴子が自分と別れてパリを去っていったときの、あの飛行機の消えた空の色を思い出した。あのときは、もう二人は再び会うこともなかろうと思ったほど虚しく、深い空の色だったが、――霧は絶えず噴きあがり舞い降りた。嗽いをするような秘かな水音に包まれその中に今も千鶴子がいるのだった。矢代は昼の食事を今から愉しみに入浴しているにちがいない二人のことを思うと、間もなく湯から出た。
 宿の女中から貰った杉菜や、生椎茸を擁《かか》えて彼は山小屋の方へ登った。谷底の川の表面は氷の解けた流れだけ薄黒く沈んだ色を残し、他は真白の起伏が全面朝日に映え、微粒子の飛び散るように眼映ゆかった。


 自然薯のとろろ、こんにゃくの白和、生椎茸の揚物など、こんな手数のかかるものは茶店の老婆に届けて貰うことにして、矢代は小屋の燠火で鶏の丸焼をするつもりだったが、料理にかかるには時間が少し早すぎた。小屋の床下と地面に積った雪との隙間が昨夜の雪ではまだ埋らず、下から吹く風に小屋も寒かった。
 矢代は時間のある間、また朝の日課の調べ物にかかった。一日の読書の時間中、何かまだ知らなかったあることを一つ見つけた日は、先ずその日を空費しなかったと忍耐するこのごろだったが、彼はこの日の部分では意外に大きな拾い物を一つした。それは十三世紀の宗教史の中から遅まきながらも聖トマスという人物の思想と働きとを見つけたことだった。この人物はそれまでのキリスト教からその含んでいた東洋の神秘思想を抜き去り、代りに十三世紀のカソリックに初めてギリシアの主知主義を導き入れた。彼は、人間というものは霊的世界と物質世界をつなぐ紐帯物だと眺め、神の世界に入るためには、人人の感覚の受け取る物質の秩序を科学的に極めて後に、次第に高きに登ることを主張して、ルネッサンスの科学の勃興に決定的な力を与えた主要な人物だった
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