事だったからであるが、それもいくらか酒にほぐされ、初めて千鶴子の顔を見て訊ねた。
「八月の二十一日に着きましたの。」
千鶴子は答えただけでまたすぐ食卓の上へ眼を伏せた。頭から飛び散ってゆく何ものかを必死に防ごうと努めている、びくびくした彼女の表情を矢代は見てとり、
「じゃ、僕の想像はあたったな。僕は九月二日ですから、あなたと十日違いですよ。東北の田舎へそれから一寸引っ籠っていました。いかがです。一つ。」
矢代に銚子を向けられた千鶴子は、軽く猪口の端を唇につけただけですぐ下に置くと、今度は急に正面からじっと眼叩きもせず矢代を見詰めて黙っていた。
「この人だったのかしら、あの人は?」
と自問自答をし始めているような、苦しさに光りの滲み上げて来る眼差だった。それで良いのだそれで、悲しむことはない、と矢代は千鶴子に胸中で云いきかせながらも、無意味な幻影の退散を祝う寂しい気持ちも一刻ごとに強まるのだった。彼は話の緒口のほぐれたままに勢いづき、当り触りのないシベリヤの平原のことや、新聞社の競争に巻き込まれた滑稽さなどと、ただ饒舌っているという実感だけで話し始めた。その間、千鶴子はあまり彼の話など聞いてはいない恨めしげな様子で箸を動かしていたが、塩野と由吉は急に饒舌り出した矢代の話に面白がって、「ふむ、ふむ。」と乗り出しては声を立てて笑った。矢代はそれも遠くで聞えるように思われる笑いの底で、やっと気力を掻き集めてはまた饒舌った。
「しかし、とにかく、地球というものは、妙な顔をしてますね。世界は幻影というものが起るように出来ていますよ。どうも僕らは善悪は別として、人間が悩まされている幻影を、拭き落してゆく運命を持たされたような気がしますがね。やはり、平和を愛するのだ。」
と矢代は自分の話の最後を結んで、新しく出た椎茸の揚物に箸をつけた。
由吉も塩野も矢代の洩した意味が、何んのことだかよく分らぬらしく黙っていた。しかし、矢代にしては、そのことだけは特に千鶴子に云いたくて云ったことだった。実際、彼は千鶴子をこの夜見たときから、全く別の舞台で昨日と違った劇を見始めているような、乗り移らぬ気持ちを感じて沈んだ。
そして、その愉しめぬものの一切も、千鶴子の預り知らぬことばかりで、この夜の解せぬ悲しみや寂しさのすべても、ヨーロッパで自分の見ていた幻影のさせる仕業だと思うほど、西洋か
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