べては過ぎ去った日のことだと、また肱を枕に彼は畳目に眼を落した。誰の仕業でもない、時でもなければ、人でもなく、自分でもない、地上の出来事のうちもっとも恐るべきことで、そしてまた平凡な一事実に関したことだった。しかし、それがも早や誰に通じることだろう。それもたとい異国の旅をしたことのないものであろうとも、共通に身に襲いかかってやまぬ、日常茶飯のことだのに。――
「そうでしたか。しかし、それは失敗ったなア。」
とまた暫くして矢代は云って笑顔を撫でた。もし自分が久慈や田村のように、寝ても醒めても、ヨーロッパ、ヨーロッパと浮ごとを云って旅をつづけていられたなら、どんな仕合せな旅だったことだろうと思った。
西洋から帰る多くのものが、船中から神戸を見て、思わず悲しさに泣き出すというもの狂わしい醜態がある。それはいつもあることだが、しかし、天平平安のむかし遣唐使の去来した船中でも、幾度久慈のような青年に演じられたことだろうかと、矢代は思った。それらのものも、言葉が通ぜず通訳を伴って行き、同僚たちから受けた屈辱に耐え得たものたちが、帰って多くの仕事をし上げた。それに引きかえて、言葉に練達したものの多くは、絶望のあまり終生を故郷の草の中に埋め、溜息と化して死んでいった事実の多かったのも、むかしと変らぬ、今日に似た旅愁の所業の一つかとも思われた。そう思うと、矢代もさまざまこれから身に受けるにちがいない屈辱も耐え忍ばねばならぬ自分だと思い、唇を灼く茶の香の中から、意志を強めてかかる決意もまた燃えて来た。
「もう外国へ行くのは、あたしこりこりしましたよ。行くものは良いかもしれないが、家で留守をしているものの心配は、大変だからね。まだお金はあるだろうかと思ったり、言葉も通じない所で、さぞうろうろしていることだろうと思ったり、それはそれは心配なものですよ。」
母は元気を恢復して来たらしい矢代の様子を見て、愚痴らしいものも初めて洩した。
「お金のないときはそれや弱ったけれど、言葉なんか、日本語で結構間にあいますよ。どこだって通じる。むしろ外国語をうまく使う方が、日本でこそ尊敬されるが、外国人からは馬鹿にされる方が多いですからね。」
と、矢代はこんなに自分の不得手な語学に、少しは手柄を与えてやりたくなって云った。それは弁解に等しいものだったが。
「へえ、そんなものですかね。」
「それや、外
前へ
次へ
全585ページ中302ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング