った落ちつきである。とはいえ、実はそれも自分の身分を考えず、頂きの高さで人と平等に眠っていた身が、眼を醒すと同時に、下まで墜落して行く狂めくような呆然たる静けさに、それは似たものだった。こんなことは矢代もみな想像していたことだったが、しかし、それがこれほど早く前の自分の姿を見る寂しさに変ろうとは。――
「君、日本へ帰れば、もう君と千鶴子さんとは会わないにちがいないよ。だから今のうちさ。」
 こんなに久慈が彼に奨めた日のことなども、矢代は思い出した。しかし、もしこれが自分の自然の姿であるなら、むしろ夢から早く醒めただけでも結構だと思った。たしかに、千鶴子と自分との交遊は事実あったことだったが、それも夢と等しいものだったと、思えば思い得られる自分の国の変化だった。またそれは同時に、自分自身の変化でもあるのだった。何がこのように変らしめたのか分らなかったが、パリにいたときの同じ思いを貫きつづけていても、水が氷になるように、いつの間にやら揺れ停って質の変っている自分であった。それは氷か水か、自分がどちらか分らなかったが。――


 渋谷からは路も暗かったが、ライトの中に泛き出される繁みや看板など、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。
 彼は門の引手をひき開ける手具合も、暫く不在のうち、度を忘れてつい大きな音を立てた。
 まだ母はひとり起きていた。彼は奥座敷で帰った挨拶を母にし直してから、初めて襖や天井を見廻した。廊下の方から幽かに肥料の漂って来るにおいがした。ふと彼は永く忘れていた子供のころのまま事を思い出した。柱の手擦れた汚れや、砂壁の爪の痕跡など、それぞれ自分の身を包んでいた殻のように感じられ、加わる疲れのまま見降ろしている畳目が、無きに等しい軽やかなもの思いに似て見えた。彼は母の出してくれた茶をただ今はがぶがぶ飲むばかりだった。
「へんなものだなア。お茶がうまいというのは。もう一ぱいくれませんか。」
 矢代は母に、こう云いながらも、そんなことを云
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