とこういう名前でうっかり日本を大きく呼んだりすれば、忽ち人人から馬鹿者扱いにされ、攻撃を受ける習慣のあるのもすぐ感じた。それも人人だけではなく、前には自分もそのような一人だったような気持ちもした。しかし、いったい何時の間に、誰がこんなにさせてしまったものだろう。矢代は窓から見えるソビエットの平原に向い、ひとりこういうときには胸の中で呟いた。「ね君、君はそれをよく知ってるだろう。誰が一番こんなにさせたかっていうことを。僕は今にどこの国の人間も、僕が君に云うように、誰も彼も云い出すときが必ずあると思っているよ。俺の国の美風をどうしてくれたとね。云わずにはおれないじゃないか。」
 ここはポーランドの国境からずっと写真を撮ることも、旅客は禁じられていた。夜など窓に降ろされたブラインドを上げて外を見ることも許されず、日本人のいる矢代たちの部屋の前には、特にボーイが監視役についていて、中の様子に一晩中聞き耳を立てていた。しかし、こんなことも、矢代らはもううるさいこととは感じられなくなっていた。ただ一日も早く日本の匂いが嗅ぎたいばかりが望みとなり、それも眼のあたりに迫っているのだと思うと、どんな退屈さや窮屈さも忍耐出来るのであった。それに引きかえて外人たちは、日本が近づくに随って、表情も淋しげで日に日に力のなくなるのがよく分った。船で往くときには、マルセーユへ近づくにつれ勢いを増して来た外人たちの群れだったが、今はそれが反対に衰えの加わる彼らを見ては、矢代は、地中海へ入り始めたころの日本人らが、丁度そんなに凋み衰えていった当時の有りさまを思い出したりした。
 南はナチスの外交官がいつも手放さずに、食堂へ行くにも携げて歩いている二尺大の皮製の薄い鞄を見て、
「何んですか、それは?」と訊ねたことがあった。
「これは日本にとっては、大切な大切なものです。」
 とその外交官の一人の方が笑って答えた。国と国とを繋いで動かそうという一本の希望に似た綱が、どちらへどんなに引き合うのか分らなかったが、ただこのような鞄の中に入っただけで簡単に往来をしているのを見ると、矢代は一寸奇異な感じがした。どこの国も、この鞄の中の希いを見たくて溜らぬという時であるだけに、狭い廊下で鞄がズボンに擦れて通るときは、矢代も思わず緊張した。隣室では夜も二人の外交官らは、一人が眠ると他の一人が起きていて、交代に鞄の
前へ 次へ
全585ページ中278ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング