へ帰ってゆくそれらのどの顔も笑っているのは一人もなかった。
 矢代はしばらくして空腹を感じたので東野を食事に誘ってみた。東野は頭の上の子供の自動車場の崩れるのが惜しそうな様子で頭を動かさず、
「坊や、もう御飯だから降りなさいよ。ええ?」
 と下から父親らしい日本語で云った。しかし、子供は彼の声も聞えぬらしく夢中で東野の頭をしっかりと片手で抑えた。矢代はふと後ろの方を向いて見ていると、露地の入口の所から子供の母親らしい婦人が立ってこちらをじっと見ているのと視線が合った。その婦人はさっきから自分の子供を呼んで良いものかどうかと躊躇していたものと見え、謙遜な美しい微笑を泛べながら東野の方を見てやはりまだ立ちつづけていた。
「さア、行くぞ。よっこらしよ。」
 東野は子供を抱いて下に降ろすと、
「夏のパリは貧乏人ばかりでいいですね。のびのびしてゆっくり出来る。極楽浄土じゃ。」
 と云いつつあたりの夕暮の景色を娯しそうに眺め眺め、矢代と並んで食事場の方へ歩いていった。


 もう三四時間で国境の満洲里へ着くというころ、少し矢代は眠くなった。いつでも汽車から降りられる支度を整え上衣を脱いだだけの姿でまた彼は寝台へ昇った。この列車の寝台は昇るというほど高かった。夜中など振動のため抛り落されそうになって眼が醒めたこともある。およそ十日間ほど続いてシベリヤを走っている旅であった。十日も同じ方向に進行している車の中の暮しは、退屈というよりも時間の観念が常態ではなくなっていて、どこか頭の中に棲み始めた異様なものが、身体から感覚を吸い摂り肥って来ているような、麻痺状態がずっとつづいた。今さき朝起きた筈だのにと思っているともう夕日が窓から射して来る。こんな筈がないのにと思って考え込んでいるうちにすぐ、窓の外は闇になる。時計などを出してみても、このあたりの時計はモスコーの時間そのままで午前の九時が事実の午後の四時ごろに当っているので、そこを絶えず事実と時計の差を計っていたりしては疲れた頭を一層痛めるばかりで面倒だった。
 それでも矢代はシベリヤの旅の十日間を、思い出してみようと努力してみることもあった。すると、不思議なことに印象といっては何もないのに彼はまた驚いた。ただ一面の草ばかりが日を受け、大海の中の水平線と同様真直ぐに延びはだかった地平線が、ポーランドからずっと続いて来ているだけだった。こ
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