。立ち際の気の散る様を抑えながら千鶴子は、
「あたし兄さんから、フロウレンスへ行って来いと云われたんだけど、とうとう行けなかったわ。でも、短い時間じゃ無理ね、どこへも行きたくなくなるんですものね。」
こんなことを云っているうちに、エア・フランスのマークをつけた銀色の機の扉が開かれ、もう客たちが中に這入るのを見ると、千鶴子は急に顔色を変えてハンドバッグを脇にかかえ込んだ。そして、矢代の眼を見詰め、
「じゃ、行ってきますわ。御機嫌よう。」
と云った。
「さようなら。」
思いがけなく早い別れに矢代は、「さようなら。」を返すのも軽い声より出なかった。握手をしてから千鶴子は芝生の方へ歩いていったが、また一度こちらを向き返るといつもの笑顔に戻り軽快な歩調だった。三つのプロペラが一つずつ廻り出したとき、千鶴子は機の踏段に足をかけてまた矢代の方へ手を上げた。
矢代は瞬間扉の口へ絞りよせられるような眩惑を感じ、千鶴子が中へ消えると、初めて機体が芝生の中に形を整えたはっきりとした一箇の鳥の姿に見えるのだった。千鶴子は羽根の真上のあたりの窓からこちらを覗きながら手袋のようなものを振っていたが、その窓も顔もほんの小さくより見えなかった。矢代は緊張がゆるんで手応えのない感じで手を上げた。
機体は俄に乳色の煙を草に噴きつけた。そして、大きな爆音が聞えドアが閉ると、矢代は血がどっと頭にかけ昇る思いでまた手を大きく振りつづけた。
それからもうすぐだった。機体は地の上を辷って舞い上っていった。千鶴子は窓から黄色な手袋だけいつまでも振っていた。しかし、それも見る間に方向を変えて空高く上り、一点となるやもう矢代には何もない空だけ静かに青く見えているばかりだった。
「ほんとにあの空にはたったあれだけか。」
と矢代は暫くぼんやりとしていてからそんなに思ったほど、空はフランス色の鮮やかな空しさで静静としていた。彼は取りとめのない泡の消えるような音を聞きつづけている思いで、待合室の隅のカフェーの椅子にひとり坐り出て来るコーヒーを待った。
パリ祭がすむと急に避暑に散ってしまう慣しらしいパリには、なるほど人が眼に見えて少くなった。そこへ千鶴子が帰ってから二日目に、久慈と真紀子たちもマルセーユ廻りでスペインへ旅立った。ひとりになった矢代は朝から閑を持ち扱いかねて、ブロウニュの森の中を終日あちこちと
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