んやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
と一言運転手は答えただけだった。
じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。
まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動
前へ
次へ
全585ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング