運ぶ画家らしいのが、二三槍を突きつき、「おう、おう。」と叫んで雨の闇の中へ消えていった。
「じゃ、ちょっと千鶴子さんの荷物の手伝いをして来るから。――すんだら来るよ。どこにいるかね。」
 と矢代は立って久慈に訊ねた。
「いいよ。そのまま行って来いよ。」
 笑いもせずむっつりと云う久慈に矢代は顔を赧らめ、ふと挨拶めいたお辞儀をした。
「それではこれでお別れですのね。皆さんどうぞお丈夫で。」
 千鶴子は立って腰をかがめ皆に挨拶をした。
「あ、そうだ、明日の朝だったなア。」
 塩野は忘れていたらしく頓狂に云って千鶴子の顔を見上げたが、
「じゃ、さようなら、明日また。」
 と軽く会釈をし直した。久慈はもう千鶴子を見なかった。真紀子だけひとり千鶴子と握手をしたがそれも軽かった。明朝また見送りにもう一度と皆が思っているにしても、皆の想いとは別にこの夜の別れは非常に簡単だった。
 矢代は襟を立て雨の中を歩いていった。千鶴子はぴったり彼により添うようにしてついて来たが、道路が暗くなって来ても二人は何も云わなかった。


 木の葉の匂いの強い夜で、歩いて来る人声が聞えていても擦れちがうときただちらりと顔が見えるほどの暗さだった。矢代はいつも歩くこの大通りがこんなに暗かったのかと、初めて驚く気持ちで周囲を見廻した。千鶴子も一緒に街路樹を眺め、
「もうこの街も二度と見られないかもしれないのね。これで。」
 とそう云ったが、そんなに悲しそうな声ではなかった。
「ロンドンに暫くまたいらっしゃるようだったら、ときどき手紙を下さい、もっとも僕もすぐここを立つだろうと思いますがね。」
「ええ、でもすぐ船に乗らなくちゃならないと思うの。ですからあたし船の中からお出しするわ。あなたのホテル、手紙きっと廻してくれるのかしら、そんな妙なことだけがこの間からの心配ですのよ。」
 見上げて笑うらしい千鶴子の声に矢代もつい笑い出した。
「大丈夫ですよ。あなたがニューヨークへ着いたころは、僕はベルリンあたりにいると思うな。」
「あたしたち横浜へ着くの三十日ほどかかるんですから、もしあなたがシベリヤ廻りでお帰りになるんだったら、十日ばかりあなたの方が早いわけよ。面白いわそしたら。」
 千鶴子はこう云いながら明日の別れを少しも惜しむ様子ではなく、むしろ矢代のこの度びの黙っている別れの気持ちを万事のみ込んでいる風があり
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