の男は星を観測するときに、その前に食った食物が野菜だったか、肉だったかという質の違いで、もう観測に現れた数字の結果が同じでないと云ってたことがあるね。食い物でもう違って来るというんだから、天文学にも区別あるかもしれんぞ。」
と久慈は自分に不利な云い方を我知らずに口走って笑った。矢代は自分ひとりの落ち込んでゆく淋しさから延び上り、今は当面の話題にとり縋っていたかったので、強いて勇気を取り戻そうとして云った。
「そんなら、科学は誤謬を造るのが目的だというようなものじゃないか。あ、そうだ。さっき、東野さんがドームにいたんだが、人民戦線の駆り出しが通ったときに、円周率は三コンマの一四じゃ割り切れんぞ、用心をせいと呶鳴っていたな。」
そう云いつつ矢代は、東野のそのときの言葉の意味を初めて了解するのだった。しかし、こんな会話も争いを起さぬ工夫に捻じれ気味で、辷りの悪さを感じたものか千鶴子は、
「あら、あんな所で踊っているわ。今日は踊りを初めて見てよ。淋しそうな踊りだこと。」
と云って皆の視線をある街角の鋪道に向けた。そのあたりはもう人気のない空虚の街だった。通る人もなければ振り向く者もない一角に、数組の男女が慎重にステップに気をつけた態度で踊っていた。山中の踊りかと見えるその男女の舞いの上に、雨も降りかかっているらしく石の上には斑点が浮んでいた。
ドームの前まで来かかったとき、たった一人のお客がテラスに腰かけたままぼんやりと空模様を眺めていた。それが東野だった。
「あッ、おやじ一人いるわい。」
と久慈は懐しそうに云って窓ガラスを叩いたが、その前を通りすぎた一行の自動車は、凄い速力で早やテラスから遠ざかってしまっていた。ここは雨が降ったと見え鋪道は濡れていて、急に冷えた空気が千鶴子たちの香水の匂いをあおり返して来た。
「東野さん、人民戦線なんか御覧になりたくないのね。」
と真紀子は後ろの方を振り返ってみて云った。
「そうじゃない。きっともう見ているよ。」
こう云う久慈に矢代は、
「それや見てる。ただあの人は心の騒ぐのがうるさいんだよ。今日のような日は、一番難しいのは塩野君かもしれないね。写真を写すときには、写す対象がどんなものでも、レンズと同じように冷たくなる努力を要すると云ってたからな。あの情熱家が冷たくなるのは難しいよ。」
何か久慈は云いたそうに薄笑いを泛べて
前へ
次へ
全585ページ中250ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング