ます。波の音が午後になると、いつもここの海岸は高くなります。この海の向うにいらっしゃるのね。――
[#ここで字下げ終わり]

 箱根の山の見える海ぎわに、夕日のさしている風景が矢代の頭に浮んだ。そして、そこの下でまだ療養している妹の寝姿を思い急に心は曇ったが、手紙をポケットにしまい込むと、毎朝の日課のルクサンブールの公園の中へ這入っていった。樹の幹の間に落ちている日光の斑点の中で聖書を読みつつ歩いて来る若い牧師の華奢な両手――その指の間から閃く金色の聖書の頁が矢代の眼を強く刺して来た。
 日ごとに蕾を開いてふくれて来る大輪の黄薔薇の傍を通り、芝生の中の細い砂を踏んで歩くうちに、矢代は不意に千鶴子と今日でもうお別れだと思った。どっと波の襲うような音波が一瞬公園の緑の色を無くした。それでもじっとベンチに腰を落し樹の幹を見ている間に、また断ち切られた緑の色がもとのように静まって来るのだった。


 ドームのテラスにはもう塩野を初め、東野やその他知人三四人の日本人の顔も見えていた。一人はある新聞社の特派員で、今日は一日馳けずり廻らねばならぬのだと云って、どこへ行けば一番右翼と左翼の衝突が見られるだろうかと、よりより協議の最中らしく興奮した面だったが、矢代はそんなのもあまり見たいと思わなかった。
「しかし、とにかく、パリ祭も変れば変るものだなア。毎年このあたりの通りは踊り狂う群衆で、もう電車なんか通れたもんじゃなかったんだが、どうだ、このさびれ様は。」
 とこう云ったのは塩野だった。パリ祭の賑やかさは前から矢代も話に聞き、映画などでも見知っていた。しかし、実地に見たのはこの日が初めてだったから、見たところ常の日とそんなに変らぬ街の様子も、塩野の驚くほどには感じなかった。
「僕らは旅人だからそう云われても、どうも分らない。これじゃ、フランスも表面を素通りしているだけで、何も知らないのだな。」
 と矢代は塩野に云って笑った。フランスのことをどんなによく知っているものでも、長くここにいるものには頭の上らぬ先輩意識が起り、自然と日本人は圧えられ謙遜になるのだったが、矢代は、その先輩を気取っているものさえ、どこまでフランスを知っているものか、怪しいものだと思った。日本人が他国を見るのに自分の中から日本人という素質を放して見るということは、どんなことをするものかよく分らず、またそのような
前へ 次へ
全585ページ中242ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング