い声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、
「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。
過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。
「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」
「お聞きしているのよ。」
逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。
「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」
日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。
「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」
どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。
「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」
久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。
「さア、早く出なさいよ。」
と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。
矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久
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