が、車は門から中へは這入れなかったから、船まで矢代は歩かねばならなかった。
鉄の門をくぐったとき、千鶴子はそろそろ足を引き摺って来る矢代の腕を吊るようにして、
「あたしの肩へお掴まりなさいよ。大丈夫?」
人一人もいない暗い倉庫の間で千鶴子にこんな親切を受けようとは矢代も思いがけない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、大丈夫です。」
と云いながらも彼は強く匂う千鶴子に腕をとられた。まったく偶然にしてもこんなに傍近く千鶴子といることは一度も船中ではなかったから、早く船が見えなければ気の毒だと割石の凸凹した倉庫の間を、身を引く思いで矢代は跛足を引くのだった。船の灯が前方から明るく射して来ても、千鶴子は臆せず矢代を助けていった。
「僕だけが沈没したみたいで、これや残念だな。」
一行の無事な中で自分ひとり落伍した淋しさを云うつもりであったのに、しかし、このときの千鶴子には、あながち矢代の云った意味ばかりには響かなかった。たしかに今ごろは胸をときめかせるような歓楽の街に皆がいるのに、一人古い船の巣へ戻る佗しさに耐え難くて発した嘆きと思われたに違いない。
「でも、今夜はお休みになる方が良うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。
客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢
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