特に心を奪うような樹を排してあるのも一服の煙草の味を美味にした。彼は千鶴子の来る東門の方の楡の繁みをときどき見た。
折り畳まれた細い鉄製の椅子が繁みの影に束ねてある。柴のように見えるその椅子の束の間から千鶴子が黒い服で近よって来た。下枝を払った樹樹の梢の張りわたった葉の色に染り、薄化粧をした千鶴子の顔も少し青ざめていたが、一株の薔薇の見える小径をおもはゆげに笑い、横を向きつつも千鶴子の足はだんだん早くなって来た。
「昨夜はよくお眠みになれて?」
「少し早く眼が醒めすぎた。久慈はまだ寝てるんです。」
千鶴子は矢代の横へ腰かけ、よたよた身を振る鳩の歩みを眺めながら、
「ゆうべピエールさんよく御覧になって。何んだかお年寄に見える方でしよう。」
「そうでもないな。美しい良い感じの人でしたね。なかなか似合ってた。」
千鶴子は矢代の膝を打とうとしたが、ふとその手を止めて彼の方を向き返ると、
「あなただってなかなかお似合いだったわ。憎らしいほど、あれよ。」
顔を染める千鶴子を見るのは矢代にはまったく珍しいことだった。ドイツへ自分の逃げる前ここの公園のベンチで幾度こんなにして千鶴子と話したか分らない。もう彼女と会うことはあるまいと思い、またこの上会ってはならぬと思って逃げていったも同様な自分だったのに、それに今は人目のない朝のこの場所を選ぶようになってしまったことは、変れば変る状態だと矢代は思った。彼は千鶴子とこうしてただ並んでいるだけですでに身体が溶け合い、皮膚の隅から隅、内臓までも一つの連係をもって自由に伸縮している貝のように感じられた。
「もう君の考えることも僕の考えることも同じだ。どうしてくれる。」
口へは出さず矢代は芝生に落ちている日光の斑点を眺めながら、さも楽しみ深そうに煙草を吹かした。昨夜見た椿姫では第二幕目のブウジバルでアルマンは丁度今の自分のように幸福そうであったが、すぐ悲劇が十分後に起って来ていた。矢代は日本にいる千鶴子の家の人人のことをまだ少しも知らぬ自分だと思い、悲劇が起るならそこからだとふと思ったが、しかし、それも起ったところでもっと今より後のことだった。
「ホテルへはもう一度お帰りになるの。」
「あ、そうだ。」矢代は身を起して云った。
「今日はどこもパンを売らないそうですよ。ほんとうかどうか、これから見て来てやろうじゃないですか。お腹が空いたし
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