『貴重な愛』を失ったアルマンの歎きをつづけていった。
「あら、汚れたわ。」
千鶴子は急に首を上げて矢代の肩に附いた粉白粉を払った。そして、笑いながら、
「御免なさいね。」
と云うと矢代の手を自分の膝の上に置き両手で揉むように撫でた。矢代は千鶴子が身動きすると一層高まる酔いに似たものを感じた。一つは悲劇に落ちていく切切たる歎きの情緒を湛えた音楽が、二人の中へ嫉妬のように割り込んで来るためもあったが、それにしても今のこの愛情をもし誰かがひき裂いてゆくとしたら、自分もあのアルマンのように乱れ悲しむにちがいないと思い、矢代は支えている千鶴子の耳飾の冷たく首に触れるのもひやりとする切なさだった。
「もういかなくちゃいけないわ。幕よもう。」
千鶴子は立って鏡の傍へより顔を直しながら矢代に、
「あなた、ほんとにホテルへ帰ったら、お電話して下さいね。」と云った。
そして、また矢代の横へ来て坐ると、彼の手をもう一度自分の膝へ乗せ、
「いい、行って来ても?」と訊ねた。
「まあ、困るがやむを得ん。」
矢代はいっかピエールが千鶴子の手に接吻したのはどちらの手だったかしらと、ふとそんなことを考えぴしりと手の甲を一つ打った。
「じゃさようなら。」
千鶴子が立って出て行こうとしかけたとき矢代は急に呼びとめた。
「悲劇にしないでくれ給え。大丈夫ですか。」
千鶴子はドアの間へ半ば入れた身体をひねって黙って笑いながら頷いた。矢代は千鶴子がいなくなってから自分も立って鏡に姿を映してみた。なるほど少し肩が崩れているなと思い、ネクタイの歪みを直したり、白い胸板を正したりしながら、とうとう自分も日ごろ軽蔑していた旅愁にやられてしまったと思った。事実、自分に攻めよせて来たのは千鶴子にちがいなかったが、千鶴子も自分もパリに総がかりで攻めよられたことにもまた間違いはなかった。これが日本へ近よって行く度びに一皮ずつ剥げ落ちていくとしたら、実際は、自分たち二人は今は夢を見ているのと同じだと思うのであった。それは考えれば全く恐るべき結果になる。しかし、それも今は考えたって始まらぬ。なるようになって来て、誰がこんなにしたのかも分らなかった。もう自分はこの喜びを喜ぶまでだと、彼はタキシイドを整えた元気な姿でまたソファへ腰を降ろしひとり舞台の悲劇を見つづけた。
終幕前の休みにはもうホールの観衆は全く興奮して
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