し始めた。彼は太股を撫でながら日本人が文化が分るのどうのと云ったところで、それは全くわれわれ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始めて来るのだった。


 夕食のころになって矢代たちの一行は街へ降りレストランへ這入った。前には道路をへだて、夕日に輝いた海が淡紅色の水面をひたひたと道路の傍まで湛えていた。海へ下って来ているあたりの街には海草の匂いが立ち流れ、家の中の人人の顔まで照り返った夕日に染り、花明りによろめく蝶のような眩しさだった。店の客たちは海の方を向いたまま、牡蠣の貝にナイフをあて静かに舌をつけて楽しんだ。
「さアさア、フランスのパンが初めて食べられるぞ。」
 と沖氏は揉み手をして笑った。この元気の良い老人もようやく疲れが出て来たらしく、椅子に背をぐったりよせかけて食事の支度の出来るまで動かなかった。
「いや、それより何より、先ずマルセーユの葡萄酒を飲もう。おい、葡萄酒。葡萄酒。」
「うい。」
 軽くあっさりした女の返事があって、赤と白とが並べられた。今は一同、互に恙なくここまで来られた健康を祝すために無言のうちにコップを上げた。一瞬、かつて船中では見られなかった厳粛な表情が皆の面にさっと走った。
「ぼうとるさんて。」
 と一人が云うと、皆それぞれに葡萄酒を飲んだ。沖氏は傍の給仕の女に、前に習った汝を愛するという即製のフランス語で、
「つれしゃるまん、つれしゃるまん。」
 と云いつつコップを上げた。
「めるしい。」
 女はにこりとして忙しそうにパンや皿や、フォークを卓の上に並べ始めた。
 初めてフランス語の通じた喜ばしさに、沖氏は、
「どうだ皆さん、僕が一番槍だろう。」
 と大見栄切ってわアわア一同を笑わせた。間もなく、オードオブルに混って茄だった小海老が笊に盛られて現れた。海に向った方のテーブルの上では、水から出されたばかりの牡蠣の貝や海胆《うに》の毬が積まれていった。レモンが溶け流れた薄紅色の海気のなかを匂って来る。あたりの薄明のうつろいのうちに港には灯が這入った。鴎のゆるく飛び交う水面を拡がる水脈のような甘美な愁いがいっぱいに流れわたった。
「あたしもここで降りてしまいたい。」
 と千鶴子はミルクを紅茶に入れながら云った。矢代は千鶴子の声を聞くと、そうだ、千鶴子もここにいたのだと初めて気がついた。船の金具がきらきら水上から光って来る。夕栄の映った水明
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