だと、瞬間自責を感じて通りの晴れ間に葉を拡げたマロニエに眼を移した。
「それはそうと、東野さん、久慈は二三日行方不明で困ってるんですが、あなたの所へ顔を出しませんでしたか。東野のおやじ来んかな、やっつけてやるんだがって云ってましたから、もしかと思いましてね。」
「来んな。どこへ行ったんだろ。」
 東野は考え込む風だったが、別に心配そうな顔はなく、にやにや笑って顎を支えながら云った。
「僕に怒ったって、それや殊勝な男だな。」
「何んだかこの間の議論をときどき思い出すらしいですね。」
「もうじきまたひょっこり現れるだろうが、顔を出したらもう一ぺん揉みくちゃにしようじゃないか。そうするとあの男面白くなりそうだ。あのままだといつまでここにいたって無駄だからな。」
「まだやるんですか、それや少し気の毒だ。」
 矢代はこの調子だと今に自分も叩きのめされそうだと、内心覚悟を決めて薄笑いをもらしつつ、どちらへ転がるか分らぬ無気味な東野の表情に注意した。
「そうすると、僕もまだこれや、東野大学なかなか卒業出来んらしいですね。」
「君もまだだよ。君は人間の過去ばかり考えたがる。それはいかん。」
「いや、未来だって考えてる。」
 矢代は案外真面目に突かれた驚きを色に出して反抗した。
「そんな未来は未来じゃないさ。」
「しかし、そんな未来って、僕の考えてる未来はあなたに分らないじゃありませんか。」
「分るさ。君のいつも云うことは人間の過去の美しさを信頼して物事を考えてるだけだ。それじゃつまらん。過去なんかいくら美しかったって、良かったって、何になる。あそこの二人の論争だって、フランスとドイツの良い所ばかり云い張っているだけで、過去ばかりより考えていないからいつまでたってもあの醜態だ。傍から水をぶっかけたって、まだ水の中で云い合いしとる。はッはッはッは。」
 東野は笑いながらすっと立ったかと思うとそのまま飄然と外へ出ていってしまった。矢代は理由もなく殴りつけられたようで後を追っかけて行く気もしなかったが、それでも他人の非難は一度は慎重に考えたくなり、再度の武装の具足を手足に巻き固めたくなるのだった。
「分らないな。僕が未来を考えないって、どういうことだろう。またこれは喧嘩の種が一つ落ちた。」
「だって、東野さんでも俳句お作りになるんじゃありませんか。あんなのもやはり未来の美しさなのかしら。」
前へ 次へ
全585ページ中138ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング