いか。実際僕に不思議でならぬのは、ここから日本のことを思うと、いつでも人が日本に一人もいなくて、はっきり、伊勢神宮だけが見えてくることだね。これやどういうもんだろう。」
矢代はブリュウバールの方に日本があると思うらしく、傾いたその道路の方を見ながら暫く黙っていてから、また云った。
「僕はこのごろ本当のことを正直に云うと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ぼうとどうしようと、どうだってかまやしないと思っている人間がいそうに思えて仕様がないのだ。何んだかそんな気がするね。しかし、僕はどんなに世の中がひねくれたってかまわないが、たった一つの心だけ失っちゃ困ると思うものがあるんだよ。それさえあれば善いというものが――ね、そうだろう、なければならぬじゃないか。あるけれども忘れているというような、平和な宝のような精神さ。どこの国民だって、一つはそんな美しいものを持っているのに、忘れているという精神だよ。僕らの国だってそれはあるのに、探すのが厄介なだけなんだ。しかし、僕は見つけたよ。見せよと云われれば困るがね、何んというか、それは云いがたい謙虚極る純粋な愛情だが。」
「それや何んだい?」と久慈は不明瞭な矢代の云い方に腹立たしげに云った。
「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平和な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。桃の花さえ笑ってくれてれば良いというのと、牛の飼麦の煮えるのまで喜んでいる心というのとは、だいぶこれで違いがあるよ。ところが、日本と中国の知識階級は、こういう両国の底の心というものをみな知らなくなってしまってる。僕だって君だってだ。殊に君なんかひどすぎるぞ。このまま行けば、僕らは東洋乞食というか、西洋乞食というか、まア君なんか西洋の方だなア。」
「今さらお前は乞食だと云ったって、三日すれや熄《や》められるか。」
どちらか皮肉を云い出せば、髄まで刺し通して共倒れになるまでやり合う習慣がまたしても出かかったが、もう久慈には刺される痛さも感じない、午後の気重い退屈さがのしかかっていた。それは街の石の重さのようにどっしりと胸の底に坐り込み、突いても吹いても動き出す気配のない重さだった。貸家になっている前の家の石壁に打ち込まれた鉄鋲から垂れ流れて
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