返ると、
「何んだかお一人で騒いでいらっしゃるのね、面白い方だわ、あなた。」と久慈を薄眼で見上げて笑った。
「とにかく君たちは、僕とは恐ろしく趣味の反対な人たちだよ、古典派というのかね。お行儀はいいよ。」
 窓の外へ乗り出すように欄干の鉄の蔓を掴んで久慈は下の通りを覗いた。太い足の爪の附け根に毛の生えた白い馬が車を曳いて通る。竿のような長いパンを数本小脇にかかえた女が、片側に二列ずつ並んだ街路樹の青葉の間を縫って歩いてゆく。からりと晴れている空にも街にも微風さえないのどかさだった。
「あたしね、ロンドンへ一寸帰ろうかと思うのよ。またすぐ来てもいいんだけれど、それとも、もうそのまま日本へ帰ろうかとも考えてるの。」
「もう少しいなさいよ。巴里祭までいなきゃつまらないな。また出て来るにしたってなかなか億劫だし、それに君こんないい所はもうないよ。実際ここは素敵だ。僕は自分がパリにいるんだと思うと、もうそのことだけで幸福だ。石の屋根の上にこんな菖蒲の花が咲いてるんだからな。楽しんで見なさいよ。罰があたるぞ。」
 久慈は微笑しながら菖蒲を眺め建物の上に流れている浮雲を見ているうちに、ふと紅海を渡って来る船中での千鶴子との親しかった日日を思い出した。それは恋愛というべきものではない、心やすさのままな自由な交際であったが、そのころはまだ千鶴子は矢代ともあまり言葉も云わない間だった。それがいつの間にかうかうかとパリに夢中になっている隙に、久慈は二人の結婚の斡旋を喜ぶ位置に変っているのである。一つは矢代が千鶴子との接近をある一定のところがら動かそうとしないのも、船中での自分と千鶴子との親しさを見知っている遠慮も、まだとりきれないのであろうと久慈は思った。
「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」
 千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。
「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法
前へ 次へ
全585ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング