。ちゃんとあるよ。ところが、この西洋のヒューマニズムとはちと違う。どっちが善いかは今云いたくはないが、違うなら接近させるためだって、僕らは少しは自分を考えねばならぬさ。自分をね、日本をね。」
久慈は笑いが口中へめり込んでいくような苦苦しい微笑を浮べると、急に嘲るように低声になった。
「ヒューマニズムに東洋と西洋の別があるか。それがなければこそ、僕らはその理想を信仰するんじゃないか。」
「自分が、知識階級だという虚栄心で、東洋と西洋とのある区別さえ無いと思う習練を永久に繰り返すのかね。つまり、それは君の習練だよ。」
「その習練が分析力の結果なら、それは世界を守る道というものだろ。誰も動かすことの出来ぬ道というものは、たった一つ厳然としてあるのだ。それを探すのが分析力だ、いったい、分析力に西洋も東洋もあるものか。同じ共通のもので負けてれば、負けてる方が弱いのだ。それだけは仕様があるまい。」
と久慈はとどめを刺すように片肩を引き降ろして矢代を見据えて云った。
「負けたとこばかりより君に見えぬのだよ。勝ってるところまで負けにするのが分析力だ。見て見ろ、ここのこのざまは、これで全身が生きているといえるのか。」
久慈と矢代のつづけている論争の傍で、東野はもう二人の争いなどうるさそうに、片眼の男が女を口説く毛物のような爛爛として無気味な表情を、眼を放さず見詰めていた。女の亭主がパリで一旗あげる心算で、出版屋の片眼に妻を自由にさせているものか、あるいは妻が、良人の出世を希う一心で男のするままに応じているのか、そこの秘密を知りたい東野の眼つきは、前からいささかも弛まなかった。しかし、文士の亭主はどういうものか妻の不貞に関して少しも動じる色がなかった。彼は理想派のトロツキストが必ず近い将来に於てスターリン派の行動と衝突を来し、パリの罷業は資本家に乗じられるであろうと主張していた。
彼の主張は、妻の心の隙間に乗じている片眼の男の獣性を諷刺しつつ語っているものかどうかも、東野は心を鎮めて眺めているのだった。
「もういいかね。いいならそろそろ出て場を換えよう。」
東野は、片眼が女の唇を盗もうとした瞬間、つと横を向いた女の動作を見終ると二人に云った。久慈がボーイに計算を命じてからも二人は暫く黙っていた。通りへ出ると、鋪道に拡がっている並んだカフェーのテラスに人がいっぱいに満ちていた。
前へ
次へ
全585ページ中100ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング