「さア、これで良ろしと。」
 いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子《ふり》で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
 と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
 甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
 久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
 と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
 と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
 と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が
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