それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」
「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」
「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
 他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。
「じゃ、行きましょうか。しかし、僕よりあなた辛抱出来ますかね。」
 と矢代は千鶴子の服装を見て云った。
「あたしはホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。チロルへ来たからには、チロルらしい方がずっと面白いんですもの。」
 相談が定ると二人は一層元気が増して来た。蜜蜂の群れが山路の両側で唸りをたてて飛び廻っていた。ドイツの国境の山山は藍紫色の断崖となって立ち連り、中腹を断ち切った白雲の棚曳く糸が、その下の渓谷の鋭さを示しながら、尾根から尾根の胴を巻き包んで流れている。もうまったく人里は見えなかった。路を曲ると急に冷気が真新しく顔を打って来た。スイスの山山が天と戯れつつ媚態をくねらせ、日光に浸った全面の賑やかさの中から白い氷の海が見えて来た。
「ああ、あれがそうだわ。あそこを渡るのね。」
 千鶴子は云いながら足早やに路を急いだ。鋸の歯のようにぎざぎざの氷の峰を連ねた半透明の氷河は、かすかに傾いた趣きでいよいよ全幅を二人の前へ現した。矢代は道の尽きたところに立って氷河を見降ろしながら、
「どうもしかし、こ奴はなかなか危険だぞ。」と呟いた。
「じゃ、矢代さんはあたしの後について渡っていらっしゃいよ。あたし、こういうところは案外お上手なの。」
 千鶴子にそう云われてはもう矢代も後へは退けなかった。氷の傍まで降りて行って見ると、氷河は高さ五米ほどの鋭い歯形の起伏を、二町の幅の中にぎっしりと
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