侯爵夫人と話していた。久慈は時を刻むように隠顕する千鶴子の靨を見ながら、矢代をまだ知らぬころの千鶴子と、ペナンの沖に灯を連ねて碇泊していた自分の船へ、飛沫を浴びて帰ったときの彼女の靨を思い出した。また、アデンの崩れた城壁の下の、焦げ石の間で、ジャスミンの花を見つけて香を嗅いだときの靨、沈んで行く太陽にむかって、スエズから真一文字に引かれた沙漠の中の道を、疾走する風に吹かれて振り向いた靨、渦巻く迅い海流の水面に初めて顕われて来たシシリイの古都を、二人で展望したときの靨など、――それら数数の千鶴子の靨は、みな久慈のみ知っており矢代の知らぬものだった。
「さア、南京まで攻め込むつもりかな。それとも上海に百哩半径の円を描いて休戦するか。」
 と、大石とそんな話をしている矢代の周囲では、塩野と速水とが、中国へ送り込む各国の武器会社の模様を語っていた。田辺侯爵は最近手に入れた陶器が得意な品と見えて、平尾男爵ににこにこした笑顔で、
「実は今夜は、君にそれを一つと思ってね。」
 田辺侯爵のそう云い終らぬうちに、平尾男爵はそれには返事をせず、いきなりぐっと後ろの遊部の肩をこちらに廻した。
「おい、買い込んだらしいんだよ。二階だろう。」
 煙草を灰皿の上へにじり消した男爵は、もう階段を遊部と一緒に登って行った。何事かと話をやめた皆のものも、その後から蹤いていったが、塩野だけは一寸引き返してラジオのスウィッチを切り替えた、東野の放送の時間が近づいて来ていたのだった。
 緑青をふいた殷の鋳銅器を置いた階段を登った所に、唐代の黄土の人形が並んでいた。龍門の石仏の首が二箇、正面の棚に白く泛き上った傍で、白磁の大壺の胴が室内を和らげ、分担した光沢の度合で、鉢や皿類が、昇って来た人の脚音をそれぞれじっと聞くようだった。高麗の水差、鶏龍の蓋物、万暦の皿、粉挽の鉢、と、ここのはすべて、人が器物を観賞するという配列ではなく、器物がその前に立った人物の価値を見届けるという風だった。
「どれだ、買われたの。」
 と、遊部はあちこちの棚を覗き廻ってから訊ねた。平尾男爵は、笑いつづけて黙っている侯爵の傍から、大明嘉靖の冷たい抜きあがった白さ鮮やかな鉢の傍へ寄っていくと、
「これだろう。え。」と云って振り返った。
 侯爵はやはり黙って答えなかった。殿様芸らしい穏やかな微笑だった。この微笑は近づく多くの人を選択し、
前へ 次へ
全585ページ中582ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング