を揃えたその対うが街の谷らしかった。遠く灯の散ったその谷間に霧がかかり、あたりは薄明りの下に沈んだ港のような和かな色を見せていた。
離れの洋館に這入ると、皆はそこですぐ椅子に掛けようともせず、浅黄の絨氈の上をぶらぶらしながら、廊下からの談をそれぞれ続けた。
壁額にはマチスの近作がかかっていた。それと対応された黒塗の棚の陶器も、潤んだ光沢の宋窯の黒柿の壺だった。卵色の地に、とろりと溶け流れるような濡羽色の壺肌の前で、真紀子は久慈に、平尾男爵と帰って来た航海の日の様子を話したりした。マチスの裸女の背を取り包んだ、棕櫚の葉に似たタロカイヤの強い緑青色を見上げている平尾男爵は、その絵を田辺侯爵に買わせたときの思出を遊部に語りながらも、ときどき自分の名を発音する真紀子の方を振り返った。そして、ともに当時の海上の旅を想う風だった。
「そうそう、相当にこの人の俳句も上手いのがあった。クイン・メリーで君にあてつけた句も、僕はちらちら散見させて貰ったがね。」と男爵は久慈に云ったりした。
「東野さんの先生なら、それや伸びるだろう。」
皮肉のつもりはさらになく、そう久慈が云ったのに、真紀子の唇の黒子がぴりりと動いたようだった。
「それはお厳しいの、先生は――それに帰ってからもね。君のようなものは、硯でごしごし磨かなくちゃ、って仰言って、お習字までさせられるんですのよ。」
東野とのその後の潔癖な事情を、暗に久慈に匂わせるような真紀子の云いぶりも、も早やそのようなことをする必要のない場合だったが、久慈はそれを、東野に愛情を瀝いでいる真紀子の安らかさの結果だと感じた。またもしもそれを良いことに、うっかりと、パリでの二人の生活の縒りを戻そうと、一歩を踏み出そうものなら、忽ち体をかわして跳び退く用意さえ真紀子の方にある、滑らかな、辷り廻ってゆく心も感じられ、彼は彼で、なおつづく空しかった旅ごころにすべて身を任そうとするのだった。
「早坂さんからその後、何か便りがありましたか。一度パリの僕の宿へ訪ねて来られたことがあったが、――別に、君に関する話には触れなかったようだったなア。」
突然真紀子の前夫のことをそんなに云い出した久慈に、一寸真紀子はなまめいた眼差で笑った。
「便りなんか出来る人じゃないんだけど、――でも、どうしたんでしょうね。あの人、あなたの所へお伺いするなんて、分らないわ。」
前へ
次へ
全585ページ中580ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング