浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
と久慈は頓狂な声を上げた。
矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言《しじま》を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ
前へ
次へ
全585ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング