何んという喜びだろうか、とまた彼は思い直すのだった。希ってもないときが来たのに、それにどう仕様もないあわれなものの打ちよせて来た感じに受けとっている自分を思うと、実際、あの夜席のときの舞妓のごとく、今は金扇をひろげてひとさし彼も舞いたくなってくるのだった。
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり――」
桶狭間の決戦にのぞみ信長の舞った敦盛の謡いが、本能寺を見ている矢代の口にも自然にのぼって来て、躊躇するものの轡すべてを彼は切り落そうとし、馬鞍を叩く手つきで窓枠の縁を打った。
京都から帰って来ても、矢代はまだそのまま旅先の姿勢を変えなかった。どこからか号令の下ってくるのを待っているような気持ちの姿勢で、そうして父の遺品の中に坐ってみているのも、家が父から自分に移り代ってくる、生涯に二度とない大切な時だからだと思った。このような時は周囲からとやかく自分に触られるのが彼には辛かった。青葉がおもい重なりを見せた中から、朴の葉だけ水中の羽根のように端正な姿を保っているのが、朝起きた矢代を何より慰めてくれたりした。こんな日のある朝である。前から矢代の家の茶の間と風呂場の角に柱があって、そこに一分ばかりの小さな穴があいていた。その穴から白蟻が噴きでて来た。ぶよぶよした半透明の翅のある蟻で、初めは数十疋のものがしだいに数を増し数千疋の大群となったかと思うと見るまに一面煙のように溢れ、あたりの壁や柱に附着した。
今まで彼はこのような事は一度も見たことがなかった。うす靄の軽くかかった好天の日で、日に透けると白蟻の翅は美しく薄緑に光った。まだ生れて以来使ってみたことのない翅と見え、蟻はそのままねばりついたような翅のよじれを解きほごす準備にかかっているらしかった。
動き廻るわけでもなく、じっと附着して自分の位置を守り、整えた翅をただかすかにふるわせてみているだけである。
別に大事件というわけではないが、家という建物自体に起った出来事としては、この蟻の大群は近来稀な現象といってよかった。
「これはどうだろう。この部屋全部壊して、一度建てかえなくちゃ、――いつの間にやら土台に巣があったんだなア。」と矢代は洗面に降りるとき立って母に云った。
「もう、はたいても、はたいても、幾らでも出てくるんですよ。」
あまりの見事さにしばらくは珍らしく、眺めていたい気持ちで母
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