の方を顎でさし、そう云ったように思われたあのときの感動など、彼はふと思い出したが、別に愚なことだとは思えなかった。なるほど、あの山の表情はこのようなときのためだったのかと、むしろ逆に感じをふかめるばかりだった。
千鶴子の久慈へあてて書いた短い文章にも喜びが出ていて矢代は嬉しかった。
「四五日前から、奈良、京都を兄たちと廻りました。私のまだ知らなかったいろいろなこと初めて勉強しましたが、私のためにたいへん遅すぎなかったことをたいへん有り難いことと思いました。兄は間もなく出発します。多分来月あたりは、あなたとそちらでお会いすることと存じます。」
こう書いた終りへ、自分の名をいつものようにせず、矢代千鶴子としてあるのに彼は気付いた。突然異様なものを見たように矢代はそこを見詰め、黙ってまたその後から自分もペンを使おうとしたが、相手が久慈だと思うと、矢代千鶴子という署名は大胆にすぎる面映ゆさで文章も詰るのだった。
「昨日ね、僕は田舎でお嫁さんはまだかと訊かれて弱った。君のことを云うには早すぎるし、否定するには遅すぎるし、というところでしてね。」
「それも早すぎるんじゃありません。」
彼の結婚の躊躇を突くような千鶴子の視線に、矢代は返答を鈍らせながらも、無造作に今までの姓を書き代える婦人の諦めの良さに感服して、暫く忽然と生じた新しいその名の感じをまた眺めた。
「今ごろこんな名にして、君いいの。」
「でも、式を待ったりしていては、きりがないと思いましたの。いつのことだか分らないんですもの。それに、あなたお郷里へお帰りになって、もしかしたら、また急に妙なこと仰言るんじゃないかと思ったりして、――そうじゃありません。」
疑う様子を露わには出さずとも、積極的に押し出て来た千鶴子の強さには、何ごとか自分自身の内部の変化や覚悟をも彼に知らせたいようだった。矢代は千鶴子のその変化を感じたくて正面から瞳の中を見た。千鶴子は一寸視線を伏せたがすぐまた臆する風もなく彼を見返した。
「君の困っていることも分るんだが、――しかし、これはたしかに僕にはありがたいですよ。これで無事だ。」
こう云っているとき、急に矢代は喜びよりもむしろ、ある不思議な悲しさを瞬間感じてペンをそこに投げ出した。何が悲しいのかそれは自分にもよく分らぬものだったが、千鶴子が自分の過去を自分の手で断ち切った切なさがうつり、
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