ものがあった。思考というものを心情にまで高めなければ、生の意義はない、と悟ったパスカルに似ている。
またそれは数学のみに関したことではない、万事精神の世界に共通した真理の分裂に関する、今日の日本人の決定的な問題にも迫っていた。
「虚無的になれば、どんなに深かろうと結局は、どこまで行っても虚無的だろうからな。しかし、それはあなただけのことじゃないですよ。」
「そうです。それは虚無的になれば、どんなに深かろうと、何もないということですよ。」槙三はわが意を得たと云いたげに眼を光らせた。
「それで僕も、あなたが幣帛の切り方に注意されたのがよく分りましたね。しかし、むつかしいなそれは。」
矢代はこう云いながらも、この槙三という兄を持ったカソリックの千鶴子が、傍にいて、これで初めて何か得たにちがいないと思い、また異う一方の部分を喜ぶのだった。
「幣帛が集合論に似ているということは、僕にはただ偶然だっていいのですよ。それで先日もお訊きしたかったのですが、今の数学は集合論につきるといってもいいのです。それも、この集合論の公理は逆説が逆説を生んで、真理が何んともならなくなって来てるんです。またその逆説がどこで停止するかも分らない有様なんですからね。実際、数学もこうなっちゃ、僕らはどこに信頼すべきか分りませんから、僕は苦しくってたまらなかったんですが、もう僕も覚悟を定めました。それでなければ、僕には自由な零というものが分らない。」
悲槍に静まって行く槙三の面にも、乗り出て行くものの微笑がおだやかに漂って澄んでいた。疑うならば、公理を信じることを誓う場所を、どこにしようとも同じである。しかし、それを信じるからには伊勢にしたいと願った槙三の意気には、数学よりも幣帛に思いを込める祈りの高まりが感じられ、パスカルのように以後この青年に対う困難な勉学の場所も、矢代には推察された。それはもっとも攻撃に満ちた困難な道のうちの、また特別に難事な場所であった。矢代は、そこでまた微笑をつづけて行くであろう槙三を想像することは、何より今日の心愉しい、みやびやかなことだと思った。その平和なみやびやかさが良いのだと思った。
西大谷で矢代と千鶴子は車から降り槙三と別れた。蓮池に懸った石橋を渡って納骨堂の石段を登って行くときも、矢代は稀に見る槙三の端麗な精神について千鶴子に賞讃した。千鶴子も槙三を認められた
前へ
次へ
全585ページ中530ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング