千鶴子とアンリエットを中に挟んでボートは岸を放れた。湖面は人の顔もよく見えなかった。水藻の匂いが久しく忘れていた日本の匂いとなって矢代の鼻に流れて来た。なまめかしい紅色の西瓜のようなまん丸い提灯を艫につけたボートが、物も云わず幾つも舟端を辷っていった。
「ブロウニュの森の中でボートを漕いだら、もう日本へ帰ってもいいって誰か云ってたが、これなら矢代君も満足だろう。」と久慈は云った。
「まア、いいよ、ここならね。」
矢代はこれで印度洋とアラビアとを廻って来て今パリでボートを漕いでいるのだと思うと、手にかかる一滴の水も、はるかに遠い故郷を眺める感傷となり窓の開いた思いだった。
「何ぜ黙っているのかね。これが青春じゃないか。」
と久慈は云ってぐんぐん一人オールに力を入れた。
闇の中でボートが擦れ違う度びに、脂粉の匂いがしばらく尾を曳いて水面を流れて来た。岸べの森の一角に見えるカフェー・パビヨンロワイヤルの天蓋の上には、一面の紅霧が棚曳き渡り、湖は森の地平から盛り上った張力を見せ灯火に光っている。
「あッ、危いわ。」
と千鶴子が声を上げた。その途端、島から垂れ下った樹の枝が久慈の頭を撫でたので、そこだけ真白な花が際立ち騒いで揺れた。島の芝生の水に浸っている岸から、数羽の白鳥が水面へずぼりと端正な姿で降りて来ると、提灯の紅の円光の中をほのかな光りに染りつつ遊泳した。樹の下に停っているボートの中では、ときどき男女の一対が一つの影となって動かなかった。
「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
とアンリエットは囁くように久慈に云った。ボートを島の渡場につけ一同は岸へ移って茶を飲みにカフェーの方へ歩いた。
董とチューリップの放射状に開いている花壇を通り、明るいカフェーの庭に這入り、五人は向き合って卓を囲んだ。矢代はマロニエの太い幹を叩きながら上を仰ぐと、花がぽたぽた落ちて来て冷く鼻を打った。燭台に刺さった蝋燭のような無数の花序の集合した庭の中を光線の縞がはっきりと流れて見える。
「今夜は愉快だ。お蔭で手に豆が出来たよ。これ。」
と久慈は両手を開いて皆に見せた。ボーイの手で裂かれたレモンが露を什器の上に満たしている間も、マロニエの花は絶えず卓の上へ落ちて来た。その度びにボーイは花を払い除けつつレモンを各自のコップに注ぎ込んだ。
花冷えにうす冷たく汗のひ
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