うないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。
船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り
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