上越線で新潟県を通過して、山形県の庄内平野へ這入って来たが、初めて私は、ああここが一番日本らしい風景だと思ったことがある。見渡して一望、稲ばかり植ったところは、ここ以外にどこにもなかったからだった。その他の土地の田畑には、稲田は広くつづいても中に種種雑多なものが眼についたが、穂波を揃えた稲ばかりというところはここだけだった。この平野の、羽前水沢駅という札の立った最初の寒駅に汽車が停車したとき、私は涙が流れんばかりに稲の穂波の美しさに感激して深呼吸をしたのを覚えている。ところが、私は今そこにいるのだ。あのときは何の縁もないところのこととて、よもやここに自分が身を沈めようとは思わなかったのに、まったく十年の後に行くところのなくなった私は、偶然こんなところへ吹きよせられようとは、これが私にとっての戦争の結果だった。そして、私は初めてここで新米を手に受けてみて、米はどこに沢山あろうともこれに代るものは、世界広しといえどもどこにもないのだと思った。
「もう生命力がないのかね、これが。――そんな馬鹿な。」
 つい私もそう云わざるを得なくなって、何となく立ち外へ出た。外では稲刈のまっ最中だ。精米所の開け放された戸口からは粉が吹き散って白くあたりの樹の幹で廻っている。

 十月――日
 ここから三里ばかり離れた京田という村で、代用教員をしている私の長男は、正教員が復員で帰って来たので解雇された。生徒たちは別れに、
「先生、東京へ帰るのか。もうちっといてくれエ。ぼた餅やるよう。」と云ったという。
 十九で人生の悲しさを知った長男は、鼻緒を切らした足駄で、真暗な泥路を夜遅く帰って来てから、初めて月給を貰い、すぐ馘《くび》になった渋い辛さの表現の仕様がないらしい。
「悲しいかい。やっぱり。」と私は訊ねて笑った。
「そうだね、生徒と別れるのは、何んだか悲しいなア。教員室はいやだけど。」
「ちょっと、月給袋を見せた。」
 羞《はずか》しがって隠していた状袋を私は開くと、巻いた袋の重い底がずるずる下へ垂れてきて、中からしかつめらしい紙幣が出て来た。七十円ばかり入っている。
「沢山あるんだね。なかなか。」
「そう、宿直手当もあるんだよ。月給だけだと三十五円だけど。」
 私は自分がある大学の教師をしていたとき、月給四十二円を貰った最初の日の貴重な瞬間のことを思い出した。あのときは、月給というものは金銭ではないと思ったが、長男の月給はなおさらだ。
「一回月給を貰って、忽ち馘とは、これはまた無常迅速なものだね。しかし、おれのときよりお前の方が多いから、豪いもんだ。」
 私は嬉しくなったので妻に参右衛門の仏壇へ状袋を上げてくれと頼んだ。
「あたしもそう思っていたんですのよ。でも、ここのは他家のお仏壇でしょう。かまわないかしら。」
「どこでも同じさ。」
 私はやはり死んだ父に最初の子供の月給は見せたくて、こんなときは誰もするようなことを、争われず自分もするものだなと思った。そのくせ自分が最初に貰ったときは、家に仏壇もあるのに帰途忽ち使ってしまったが、子供の月給となると、そうも簡単になりかねて、眼の向くところほくほくして来るのは、何とも知れぬ動物くさい喜びで気羞しいのは、これはまたどうしたことだろうか。
「お前は夜おそく毎日帰って来たからな。あの長い真暗な泥路よく帰れたもんだ。」
 私はそんなことは云わないが、どうも内心絶えずそう云っているようで、ふとまた自分の父のことも思い出したりした。私の父も表面さも冷淡くさく何事も色に出したことはなかったが、私の二十五歳のとき、「南北」という作品を私が初めて「人間」へ出してもらって父に送ってみると、京城でそれを読んだ父は、嬉しさのあまりその晩脳溢血でころりと死んだ。私の「南北」は発表後さんざんな悪評で、一度でぺちゃんと私は叩き落された。以来私にとって「人間」は人生喜劇の道場となり、いまだにここは鬼門だが、鬼こそ仏と思うようになったのは、それから二十年も後のことである。歳月のままの表情というものは涙でもなければ笑いでもない。
「お前その月給何に使うんだい。」と私は子供に訊ねた。
「僕これで東京へ帰るんだよ。早く帰って、ピアノ弾きたいなア。いいでしょう、さきに帰ったって。」
「うむ。」
「この間お小遣いもらったの、十円だけ返しとこうか。」
 何を云い出すやら。私はぽかんとして見ていると、
「だって僕、早く返しとかないと、使っちまうよ、一枚だけね。」
「まアまア、大変なことになったわね。」と妻は傍で聞きながらそう云って、仏壇からまた降ろして来た袋を子供に渡した。
「はい。十円。」
 子供は一枚出して私にくれてから、また残りを大切そうに服のボタンの間に押し込んだが、受けとってはみたものの、失敗った、私は一度も父へはそんなことをした覚えのないのが、今さら突然に悲しくなった。私の子供は何も知らずに今こんなことを私の前でしているのだが、知らずにしているということが、一番したことになっているのだ。私のは知りもしなければ、為もしなかった。これが一層痛く胸を打って来て、こ奴はおれよりも見どころのある奴だと私は思った。実際、私は論にもならぬことに感服しているらしい。とはいえ、父、子、孫、という三代には、自らそれ相当の行為の転調というものがあるものだ。人は三代より直接見ることは出来ないばかりか、それも五十にならねば分らぬことがいろいろある。年寄りじみたことながらも、これで年代の相違ということは年とともに私には面白くなって来る。
「ああ早く、ピアノ弾きたいなア。」
 と子供はそんなことを仰向きに倒れてまだ云っている。
「明日東京へ行ったらいい。」
「ほんと。嬉しいなア。ああ嬉し。」子供は蒲団を頭からひっ冠り、すぐまたぬッと頭を出すと、
「お母アさん、パパ東京へ明日行けって、いい、行っても?」まるでまだ子供だ。
 私の十九のときは、私もその年初めて東京へ出て来たのだが、父にはそれまでひと言も行きたい学校さえ話さず、父からも聞きもしなかった。そして出発の前の日母に、明日東京へ行きます、とただそれだけ私は云っただけで、何の反対もされず京都の山科から行李を一つ持って出てしまった。思うに私の父は私よりはるかに良い父であったばかりか、私の子供も子としての私よりは、子供らしい点では優っているように思う。

 十月――日
 足さきが冷えてくる。栗のいがはまだ柔かい。雨に濡れた薪の燃え悪《にく》く鍋の煮えの遅い日だ。野路の中の立話にも自家の田の出来の悪さを吹聴し合う嘘も混っていて、正直さは天候の加減で少しずつ違ってくるようだ。今日などこの雨だと架に掛った稲が腐ってくるおそれもある。照るかと思うと驟雨、激しく変る光と影。一分ごとに照ったり曇ったりで、蝿だけおびただしく群れている。

 しかし、ここに村民に嘘をつかしめるもので、天候にことよせしめる別のものがひそんでいる。元来からそんなに嘘をつかぬ人人が、嘘の表情をたたえるのだから、至って下手で、同情せざるを得ない原因というのは、いつもはもうある筈の米の供出量の割当の決定が、今年はいまだにないことだ。その無気味な沈黙に疑いの影が濃厚になり、防禦のまずい身ぶりがこのようになっている。とにかく、この村はどの村よりも真正直に第一番に立派な完納をして来たため、他の村村よりも米が無くなり大騒動をしている村だ。今年こそは何としても嘘をつかなければ、と思うのこそ当然な感情というべきだ。実際、私の見たところでは、この村はよほど稀な良い村で、善良という点では第一等の村にちがいないと思われるが、それでも幾らかの濁りのあるのを思うと、他の村落のことはおよそ想像してそんなに誤りはないだろう。私は日本でもっとも誇りとなるものの一つは農民だと思っているが、もしこれが悪くなればもう日本は駄目だといっても良い。
「不作不作というが、そんなに不作ですかね。どうもおかしいところがあると思うが。」と私は久左衛門に訊ねてみた。
「そうだのう。このへんはそんなでもないのう。」と彼は小さな声で云う。「新聞が不作不作と書きたてるので、米が騰る。黙っておれば良いのにのう。」
「しかし、村にとってはその方が良いわけだな、僕らには困るが。」
「はははは、それはそうじゃ。」
 こんな露骨な話の出来るようになったのは、一つは久左衛門がいつも、私に、高い米を買わぬが良い、無くなれば何とかするというからだ。何とかされるのだと思うと油断をして、それならさっそく米を分けてくれとはいえぬもので、いまだに私らはそれも云えずに困っている。疎開者が地方を乱す原因だということは事実である。こっそり米を買い込む算段ならすれば出来るが、私も内心この村の批評をしたい食指いまだに失うことが出来ないので、批評をするからは、やはり少しは欲を抑える忍耐が必要になって力が要る。なかなかこれは疲れるが、私もまた作家の端くれであってみれば、験しに一度はどんと当ってみるつもりの用意も失っていないくせに、そこにはそこがあり、人の思うようには愚かなことを愚には思えぬ苦心がぬけきれないのである。別に善人ぶるわけではない。おそらく、僕らの多くの友人たちも、そこここでこんな苦労は必ずひそかに舐《な》めさせられていることにちがいあるまい。
「神も仏もあるものじゃ。」
 こんなことを久左衛門が口癖のように私にいうのも、やはりいつも気にかかるのは、神や仏のことからなのだろう。米はやる米はやるといいながら、一度もくれず、その後で、「神や仏は気持ちじゃ、人の気持ちというものじゃ。」とこうもいったりする。
 おそらく今ほど人人は神仏のことについて考えているときはないだろうが、神を気持ちといったのは、私も自然な説教を聴くようで彼から米を貰うよりはどことなく気持ちも良かった。
「もう僕はあなたから米はもらいたくはない。」とひそかに心中で私は云っている。皮肉ではない。私が彼に米をやりたくなって来るのだから。

 十月――日
 透明な光線の中を風が騒ぐ。眉へ突きあたる蝿のかたまり。樹の幹を辷り降りてくる蛇の首。畑にのびて来た白菜。はげしく群れ飛ぶ赤蜻蛉《あかとんぼ》の水平動。集り散っていった食卓の菜類の中でまだ青紫蘇だけが変らず出てくる。
 稲刈――このごろの稲刈は中手だ。この中手は先日の暴風にあって実りが悪い。稲の穂の垂れ曲った方向に風が吹かず、逆に吹きつけられたそのために、茎から折れ、以後の天候の良さも結実には役立つこと少い。全国的な不作と判明する。供出の命令がいまだに方向さえ明さずじっと沈黙している無気味さ。これに随って農家もしだいに沈黙を守って来た睨み合い、この間で、温泉場からの闇買いがどんな値で忍びよるか。触覚は繊細な震動をつづけている。表面鈍感さを装っているとはいえ、内外刻刻の多忙な変化に応じ、ひそかに沈黙のまま色を変えてゆきつつもあるようだ。

 滅多に人のことを賞めないこの村で、誰からも賞められているものは、私のいる家の参右衛門の妻女の清江と、別家の久左衛門の長男の嫁とである。この二人は、私も見るたびに賞めてやりたくなって、妻と二人きりのときは、こっそりこの二人のことをどちらからともなく賞めている。清江は稲刈からちょっと帰って来るとその暇を見て、自分の長男の嫁の新しい藁蒲団《わらぶとん》を作りかえてやっている。実に手早い。
「おれの嫁のときは、姑から随分大切にされたでのう、自分の嫁も大切にせんとすまんでのう。」とこういう。
 嫁にも嫁の伝統があるものだ。妻は私の傍へ来て、
「あたしもお姑さんがほしかったわ。」と、神妙な顔で云った。
 どういう了簡か私も笑い出した。「まア、そしたら三日だね。」
「そうかしら。でも、あたしはそしたら、こんなに我ままにならなかったと思うわ。」
「嫁の苦労なんて、人生で一番つらいことの一つだよ。最たるものかもしれないね。」
「いえ、あたしはやってみせる。」
 私は唖然として妻の顔をみていた。しかし、姑がなくて倖せだったと云われるよりもまだましだ。辛抱出来るかな、出来ないね、とまた私は思った。
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