ということは考えねばならぬと思うのです。いったい、欲しがっているのですか村の人人は。私のいる隣家のお神さんは、休日が二日つづいたら、あーあ、退屈だのうと、独り言いってたですよ。」
「私の文化を注入したいという意味は、つまり、人が団扇《うちわ》を使っているときに、それはただ暑いから使っているんじゃなくて、それは一種の風流なことだと思わせたい、いかにも心に余裕のある、ゆったりしたことだと思わせたい、そういった風な意味なんですよ。」
なるほど、その表現の仕方は、郷土を愛しているものでなくては云えない深さから出て来ているものだと私は感心した。
「とにかく、それにしても、労働時間が長すぎて、過労している風ですね。働きすぎるんじゃないですか。」
こう云いながらも、私はわが国の農業は労働教という一つの宗教だと思った。そしてこの神は米だ。西洋の農業は遊牧教ともいうべきもので、この神はあるいは音楽かもしれないと思ったが、それだけは大胆にすぎ私は口へ出すのをさしひかえた。
「アメリカの農業専門家が日本の農業の視察に来たときの感想は、こんなの、これは農業じゃない園芸だといったそうですよ。一本一本手で草をひいてるのを見ちゃ、笑わざるを得ないでしょうからね。アメリカの俘虜に名古屋の一番大きな工場を見せたら、これは工業じゃない手工業だと云ったともいいます。しかし、そういう外国と日本との違いは、農業と工業とに限っちゃいない、何んだってそうです。芝居と演劇との違いだとか、文芸と文学との違いだとか、軍隊にしたって、日本のはあれは宗教でしょう。官吏だって学者だって、美術だって、どういうものか日本のはみな宗教の形をとって、より固ってしまう癖がありますね。戦争に敗けた原因の一つもたしかに、こんな癖が結ぼれあって、各宗派が戦い合った結果かもしれませんよ。敵は自分の中だったのです。」
私はこう云ってから一寸日本の左翼も宗派の形をとって進行していると思った。科学も文学もまたそうだ。そして、自分はどうだろうか。――
「僕らにしてもそうですが、しかし、宗教の形をとって進んでいることの良い点だってありましょう。宗教なら各団体の理想は何んと云おうと、人を救うということが目的ですから、どんな悪い団体にしたって、根柢にはその理想が何らかの形で流れていると、僕はそんな風に思うんです。ですから今は、道徳が失われたのではなくって、本当の徳念をより建てようとしている姿の混乱だと僕は見ています。実際、皆は苦しみましたからね。」
ふとそのとき、ここは禅寺だと私は思った。禅では殺すことだって救うことではなかったか。自分を木石と見て殺し、習錬する法ではなかっただろうか。そして、日常人と人とが接した場合、日本人の肉体からどんなに沢山の火花がこの禅の形で飛び散ったことかと思った。またそれは無意識の習慣にまでなっている根の深さを思うと、日本人の不可解さはそこにもあると思わざるを得なかった。皆が黙ってしまったとき、
「参右衛門のお神さん、歌を謡ったのは面白いなア、ふーむ、面白いお話だなア。」
と、和尚はまたそう云って腕を組んで感心した。私はこの和尚はやはりこれは一種の名僧だと思った。
私一人は今夜の客であったから、皆より一人さきに座を立って帰った。太い杉の参道はまったくの無灯で長かった。柄の折れた洋傘を杖に、寸余も見えない石畳を探り探り降りて行く私の靴音だけが頼りだった。谷間の雪が幹の切れ目からときどき白く見えていた。
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木人夜穿靴去
石女暁冠帽帰
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こつこつ鳴る靴音から指月禅師のそんな詩句が泥んで来る。夜の靴というこの詩の題も、木石になった人間の孤独な音の美しさを漂わせていて私は好きであった。石畳が村道に変ってからも灯はどこにも見えなかった。雪明りで道は幾らか朧《おぼろ》ろになったが、踏み砕ける雪の下から水が足首まで滲み上り、ごぼごぼ鳴った。
十二月――日
廂の日に耀いた氷柱から雫が垂れている。峠をくだって来る雪路に魚売り娘の来るのが見えると、迅い速度でたちまち私のいる縁側へ現れ籠をどさりと降ろした。妻が今夜東京へ発つ長男に持たせるために魚を買っているところへ、火燧崎が来て荷を無事に発送させたと報告した。その荷を逐うようにして午後四時長男が出発する。駅まで送っていった妻が帰って来てから、「もう大変な混雑ですよ。四時のならあなたお一人では帰れませんわ。」という。
私の出発は荷の着くころを狙って行くのだが、私は朝の一番にするつもりだ。その汽車だと駅前のどこかで前晩から泊っていなければ、駅までの夜の泥路は通れない。
夜はまた雪が降って来る。半分に荷の減った部屋の中では、子供の寝床も一つ無くなり隙間が一層拡がった。
十二月――日
雪が解けて来た。傾いた村道に水が流れ底から小石がむき出ている。五六日は東京へ帰る準備で私は日を費していたが、さて身を起して出発しようとすると、意外なふかさで自分の根の土に張っているのを感じた。おそらく私はもう一度この村へ来ることはあるまい。そう思うと、石の間を流れる細流の曲りも靴を洗ってくれているようだ。
私は手荷物を用意してから、竹林の孟宗の節を眺め、降りて来る薄闇の中の山を見ていた。炉端から柴を折る音がしている。どういうものか私は庭の鯉が見たくなって覗くと、夕暮れの石垣の根に鯉は沈んでいてよく見えない。
「久左衛門さんがもうお見えになりましたよ。」と妻が云った。
黒い釣鐘マントを着た久左衛門が庭に立っていて、もう私の荷物を下げていた。私は炉端へ行って参右衛門夫妻に別れの挨拶をした。参右衛門の丸い膝頭が白くはみ出ている前で、礼をする私の眼から涙が出て来た。炉の煙が低く匐《はらば》い流れている筵《むしろ》へ清江も並んでいる。
「一週間もすれば家内らも立ちましょうから、それまで宜敷く願います。」
出立といっても、今夜は、久左衛門が取って置いてくれた駅前の蕎麦《そば》屋で私は泊ることになっていて時間を気にする要もなかったが、待っていてくれる久左衛門に私もゆっくりは出来なかった。それに間もなく夜路は見えなくなる。
私は宗左衛門のあばにも挨拶に廻った。脚絆をつけた嫁が出て来たが、あばは留守だった。外へ出てから久左衛門の長男の所へ私は挨拶にまた行った。由良の老婆も裏口へ出ていた。私が別家の長男に表口から挨拶をしようとすると、裏口に私が皆と一緒にいると思ったらしい長男は裏へ廻った。外で見ている長男の嫁や老婆が表だ表だというと、今度は表へ廻ったらしい。しかし、そのときには私は裏口へ長男の廻っている様子を察してまた裏へ廻っていた。見ているものらには両方が分るので鼬鼠《いたち》ごっこの二人を見て、あはあは笑いながら表だ裏だという。どちらが裏か表か分らず二人はますます困るばかりだった。
久左衛門は駅までのいつもの路を選ばず、山添いに釈迦堂の方の路を選んで歩いた。少し遠いが路はその方が良いそうだ。天作が毎朝暗いうちから白土を掘り出しに通う路で、また由良から老婆が通って来る路でもある。釈迦堂の下まで来たとき、久左衛門に下で待っていてもらって私一人釈迦堂へ参拝した。堂までの参道を登る石畳は長いが、この良い村を暫くの間私に与えられた好運を私は感謝したかった。
湿った杉枝の落ちている石畳に靴が鳴り谷間に響いた。もうあたりが暗く、正面の堂の閉った扉が隙間を一寸ほど開けている。観音開きになった扉の厚い合せ目に下から手をかけて引いてみるのに、中から鍵が降りていてかたかた隙間が鳴るだけだった。私は閉ったままの扉の外から拝した。そして、少し戻って来たとき、今どき山中の怪しげな私の靴音を聞いたものか、方丈の戸が開いて間へ和尚の半身が顕れた。
「どなたです。」
もう傍へよらねば分らぬ暗さの中で、私は黙って和尚の方へ近よって行った。
「ああ、あなたでしたか。どうぞどうぞ。」
愕いている和尚に、私は立ったままそこで別れの礼をのべて、下で人を待たせてある理由を云ってすぐ引き返した。山際に残った雪が杉の幹の間から白く見えている。その下の村道に、両足をきちんと揃えた久左衛門が前の姿勢を崩さずに立っていた。
うねうねした泥路を二人が行くうちまったく周囲は見えなくなって来た。彼は馬の蹄の跡を踏むようにして泥を渡って行った。どれも同じように見える刈田ばかり続いた闇夜の底を一本細い路が真直ぐに延びていて、その中ごろまで来たとき、久左衛門はぴたりと立ち停って田を見ていた。
「ここが自宅《うち》の田だ。」という。
「この真暗な中でよく分りますね。」とそう私が云うと、刈り株の切り口で分るものだという。
久左衛門の妻女が三人田へ児を産み落して死なしたということをふと私は思い出した。中の一人はここの田かも知れない素ぶりで、彼は、闇夜のそこからじっと暫く足を動かそうとしなかった。
「これで、今年の米が出来上るのは、正月を越すのう。」と久左衛門は云う。
駅までは遠かった。蕎麦屋の清潔でよく拭かれた二階へ上ったときは、夕食ごろをもうよほど過ぎていた。ここでも床の間に戦死した長男の写真が大きな額に懸けてある。その下で二人は火鉢に対き合って夕飯を待ったが、私の行く家家に戦争の災厄の降り下っている点点とした傷痕が眼について、この平野も収穫をすませたといえ、今は痕だらけの刈田となって横たわっているのみだと思った。そう思うと、窓硝子の向うに迫っている闇が大幅の寒さで身にこたえた。
食事には酒も出た。久左衛門は酔いが少し廻って来ると聞きとり難い口調で、何かひとりぼつぼつこぼしている。
「おれはのう、殴られた殴られた。もうあの参右衛門から、幾ら殴られたかしれん。」二度と私と会うこともなかろうと察しているらしい彼は、過去の忍耐のすべてを呟いてしまいたい口ごもりである。「お前さんも、あの男の傍じゃ気苦労で辛かったでしょうのう。それでも、あの男は人は好い。おれがあの男の別家のくせに、金を儲けたというては、おれを殴るのじゃが、あれは良い男じゃ。」
久左衛門はこう云ってから今度は、自分の死なした初孫がどんなに利巧だったかということをくどくこぼし始めた。やはり、彼の一番の悲しさは孫を失ったことらしい。次ぎには、私の時間をいつも奪って邪魔したことを謝罪した。
「あんたとお話してると、面白うて面白うて、何んぼう邪魔しようまいと思うてひかえても、面白うてのう、行かずにいると淋しゅうなるのじゃ。おれは、あんな面白いお話は聞いたことがない。」
彼から一番困らされたことは、たしかに私の方が悪いことを私は認めている。他人の時間を奪う盗人がこの世にいない限り、自分の空間は廻らぬのだ。これについては、私はもっと後で考えることとして彼に酒を注ぎ注ぎお礼を云った。
十時すぎに二人は寝床を二つ造って貰って寝た。手織木綿の固い雪国の蒲団で重く私は一枚だけはねて寝たが、久左衛門は横になるともう眠っていた。私はいつまでも眠れなかった。駅を通る貨物が来ては去り来ては去っていく。明日一日中私は汽車の中で、夜十二時に上野へ着くとすると、朝までそこで夜明しだ。そして、私が自宅の門へ這入って行くのは十二月八日だった。
眠れないので私はときどき電気をつけて久左衛門の顔を覗いた。彼は寝息も立てずによく眠っている。見るたびに真直ぐに仰向いた正しい姿勢で、少し開いた口もとの微笑が、「おれは働いた働いた。」といっている。土台の骨が笑っている寝顔だ。戒壇院の最上段から見降している久左衛門の位牌は、こうして寝ている銃貫創の跡つけた彼の額の上に置かれることも、そう遠い日のことではないだろう。そして、私は二度とこの顔を見ることも、おそらくもうあるまい。夜汽車が木枯の中を通って行く。
底本:「夜の靴・微笑」講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集 第十一巻」河出書房新社
1982(昭和57)年5月
入力者:kompass
校正:松永正敏
2003年
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