作家は眼を耀かせて黙っていた。しかし、この作家はもう朝鮮へ去っている。
日本の全部をあげて汗水たらして働いているのも、いつの日か、誰か一人の詩人に、ほんの一行の生きたしるしを書かしめるためかもしれない、と思うことは誤りだろうか。
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淡海のみゆふなみちどりながなけば心もしぬにいにしへ思ほゆ(人麿)
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何と美しい一行の詩だろう。これを越した詩はかつて一行でもあっただろうか。たとえこのまま国が滅ぼうとも、これで生きた証拠になったと思われるものは、この他に何があるだろう。これに並ぶものに、
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荒海や佐渡によこたふ天の川(芭蕉)
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今やこの詩は実にさみしく美しい。去年までとはこれ程も美しく違うものかと私は思う。
こういうときふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私
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