。
「ああ、あの山山は。」と、トルストイがコーカサスの山脈を見て、こう感歎したのは、平坦な草原ばかりを見ていたモスコウ人のせいだけではないだろう。
「汝自身を知れ。」とデルフォイの神殿に銘された文字が哲学の発生なら、私らのここの山山には何があるのか。「人間であるということは何を意味するのか。」
雲の映った泥濘の中の水溜りを跳び跳び、ソクラテス以来のこの課題に悩まされた多くの哲学者たちの答案の結果が、ついに原子爆弾という天蓋垂れた下の人間の表情となって来た現在。このギリシャ以来の精神の連続と、私という人間と、どこにいったい関係があったのかと私は考えた。何にもない。かの山山は、物部、蘇我二族の殺戮《さつりく》しあう血族の祈りだけだった。神は一度も通った様子のない憂鬱な山脈のところどころの窪みに、仏が巣をちょぴりと結んだだけではなかったか。そして、私はまだ絶望さえしていない。
広い平野の稲の中から突然フランス語に似た発音で、
「ダダ、どこへ行く。」
と、呼ぶ声が聞えた。見ると、宗左衛門のあばだ。くるくるした、いつもの驚いたような眼が私の方を見て懐しそうに笑っている。円顔の嫁も手甲を額に
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