き、一日がかりでその傍の、仏の口というものを聞きに行く。春秋二度、毎年ある巫女から、自分の思いためらう心配事について聞き質しに行くのだ。この清江の心ひそかな心配事というのは、およそ私に想像はついているが、帰ればそっと妻に訊《き》かせてみたい。私には清江も云わないだろうから。
他人の心の奥底の心配ごとをこっそり覗きたいと思う悪心は、この主婦の清江に限って私は働かせてみたいのだ。この主婦の思い願うものは驚くほど質実単純なことにちがいないのだが、その心の底から、私は鎌倉時代の女性の心をまともに感じてみたいのだ。ここはすべてが鎌倉時代とは変っていない。風俗、習慣、制度、言語、建築、等等さえも――ただ変っているのは、精米所と電灯があるぐらいのことだろう。今どきにしてはまことに珍らしい村だ。
暴風が鎮って来ると、真っ先に活動し始めたのは蝉だ。それがまだ羽根の具合が悪いのかぴたりと停ると、別のがずっと高い旋律で鳴き出した。そのうち、あちこちからまた蝉の声が満ちて来て、すっかり風雨もやんだ。池は濁っていて鯉が水面に浮いている。しかし、それもしばらくだ。午後からの暴風は、東京地方から富山県下を廻り、日本海に添ってこの庄内地方へも廻って来たと、ラヂオは報じている。
屋根の煙抜きの吹き飛ぶ家。電線がふっ切れ、立木が根から抜け倒れる。乱舞する木の葉、枝ごとち切れ飛ぶ青柿。真垣は捻じ倒され、ごうごうと鳴りつづける森林。実をつけた桐が倒れる。池の水面は青落葉でいっぱいになって、鯉も見えない。
いよいよ今年は不作だ。この決定的な暴風の中でまた米の問題が色濃くなる。朝から米を借り歩いている農夫らが、私のいる参右衛門の炉端へ、木の葉のように落ち溜って来る。雨戸を閉じきったうす暗い部屋の中で、また毎日のようにいつもの不平をぶつぶつと呟きつづける。どこそこは米が有るのに、無いような顔をして借り歩いているとか、いや、あそこは事実ないと弁解してやるもの。しかし、あ奴は米がないと云ってるくせに、豆の配給となると、米より豆の方が良いといって、第一番に跳んで行くではないかと怪しむもの。いや、あそこへ米を借りに行ったら、兄だのに二升の米さえ弟に渡さなかったという。それで参右衛門は気の毒がって、自分がいま嫁の実家から借りて来たばかりの一斗分を、二升それに貸してやる。
「このごろのようなことは、この村始まってからないことじゃ、良い語り草になるじゃろう。」と一人がいう。
雨戸や板戸へ敲《たた》きつけられる木の枝。樹木のめりめり倒れる音。鳴きつづける山鳩の憂鬱な声。右往左往して揺れ暴れる稲の穂波。割れ裂けるガラス窓。水面の青葉をひっ冠ったまま跳ね上る鯉。
そこへ私にここ参右衛門の一室を世話してくれた別家の久左衛門が這入ってくる。この老人の完納者は、朝から米を借りにくるものらを断りつづけ、疲れはてた様子で、いつもより早口になっている。声も高い。
「死ぬ、死ぬ、いうて、朝からもう、来るわ来るわ。米を貸してやるのは人情だ。けれども、毎年貸してばかりで、借りる方は、借りるのを当然だと思うて有難がりもしやしない。今年も貸してやるとなると、借りたものが助かって、貸したものが死ぬじゃないか。死ぬなら共倒れになりたいものじゃ。借りたものだけ助かって、おれだけ死ぬのはおれはいやだ。」
「それはそうだのう。」と一人がぼんやりした声でいう。
「もうこうなれば、誰も米がないということにするより仕様がない。あれがある、これがないといっていたんでは、始まらないじゃないか。あっちから貸せ、こっちから貸せでは、もうおれの米だって、いくらもないわ。新米が出たら返すというが、古米を貸して新米で返されたんじゃ、一升五合と一升二合との替えことで、話にもなるまい。古米は古米で返して貰わねば、ま尺に合わぬわ。」
なるほど、新米一升と古米一升では、炊き増えする古米を貸したものの方が、はるかに損をするということ。これは私には分らなかった。外から観ていただけでは分らぬ多くのことが、山積している日日だ。
「だいいち、実行組合長がこんなことは分っていた筈だろ。」
と参右衛門がいう。この組合長は彼の妻の実家だ。妻の清江を守る意味でも、参右衛門から先だって大きな声で攻めねばならぬ義理があるのだ。
「組合長が米を出せ出せというて、みんな出させたからには、責任を負う覚悟があっていうべきだ。それに自分が借りられると、米がないから出せぬというのは、実行が伴なわぬじゃないか。自分の食うべきものまでやってこそ、人にも出せといえるのだ。自分だけが損をせず、村に完納させた名誉だけを取ろうとするのは、虫が良すぎるというものだ。誰もこの村で食えないものは、一人もなかった。」
「そうだ、そんな貧乏なものはいなかった。」とまた一人がいう。
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