。紋服でも着せて出そうものなら、東京のどこの式場へ出したって、じっと底光りして来るよ。」と私は妻に云った。
「そうね、あたしもそう思うわ。」
「ここにいる機会に、お前も少し勉強をするんだね。お前なんか、僕のあら探しで一生を費しちゃったんだが、そんなことせんもんだ。」と、私も田舎言葉になったりする。
「ほんと、あたしあなたのあらばかしより見えないんですもの。あなたは、あらばかしの人だわ。良いとこあるのかしら。」この批評家はうす笑いをもらしている。
「おれはこのごろ、人生はこういうものかと、少しばかり分って来たような気がするんだがね。辛いぞなかなか人生は――おれは毎日毎日、批評家からやっつけられ、右からも、左からもやっつけられ、内からは、またお前から毎日毎日だ。おれの身体は、穴だらけで、満足なところは、いったいどこにあるんだろうと思う。まったくだよ。人の非難するところを全部おれは、受け入れる性質だからね。こいつを全部受け入れて見なさい。おれは零以下の人間だ。そのくせ人は、おれにまだ何か書け書けだ。どういうことだろうこれは。どっかに一つ、良いところがなくちゃならんじゃないか。」
 私は少し感傷的になったのが、それが悲しかった。
「どっかしら。――ないわね。」と妻は黙っていてから云った。
「いや、一つだけある。」
「どういうとこ?」
「おれは、人に感心する性質だよ。おれは自分が悪いと思えばこそ人に感心するのだ。これが風雅というものさ。芭蕉さんのとは少しばかり違う。僕のはね。」
「芭蕉さんのはどういうの?」
「あの風雅は、まだ花や鳥に慰められている無事なところがあってね。そこが繁栄する理由だよ。芭蕉さん、きっと自分のそこがいやだったんじゃないかなア。あの人は伊賀の柘植《つげ》の人だから、おれと同じ村だ。それだから、おれにはあの人の心持ちがよく分る。小林秀雄はそこを知ってるもんだから、おれに芭蕉論をやれやれと、奨めるのさ。」
「小林さんが?」妻は顔を上げた。
「うむ。しかし、小林の方が芭蕉さんより一寸ばかし進歩しているね。おれの見たところではだ。」
「…………」
「それはそうと、小林はいつかお前を賞めてたことがあるよ。君の細君はいいね、ぼッとしていて、阿呆みたいでって。」
「まア、失礼ね。」妻は赧い顔をした。
「しかし、阿呆なところを賞められるようじゃなくちゃ、女は駄目なもんだよ。賢いところなら誰だって賞める。そんなのは、賞める方も賞められる方もまだまだ駄目だ。おれにしたってだ。」
 妻は笑いが止まらなくなった様子でくすくす俯向いて笑っている。しかし、私の方はそれどころではない。非常な難問が増して来た。もう妻なんかに介意《かま》ってはおれぬ。今しばらくは斬り捨てだ。

 一万米の高空でする戦闘と、地上百米の低空でする戦闘の相違について――これは飛行機のことではない。各人、だれでも一日に一度は必ずしなければならぬ平和裡の戦闘だ。妻と、友人と、親戚と、知人と、未知の人間と、その他、一瞥の瞬間に擦れちがって去りゆくものと。また自分と。戦法は先ず度を合して照準を定めることだが、照準器はめちゃくちゃだ。度が合ったときのその嬉しさ、そこからのみ愛情は通じるのだ。

 ある日のことを私は思い出す。それは晴れた冬の日のこと、渋谷の帝都線のプラットで群衆と一緒に電車を待っているとき、空襲のサイレンが鳴った。間もなく、 B29[#「29」は縦中横]一機が頭上に顕れた。高射砲が鳴り出した。ぱッと一発、翼すれすれの高度で弾が開いた。すると、私の横にいた見知らぬ青年が、
「あッ、いい高度だな。」とひと声もらした。
 話はそれだけのことだが、そのひと声が、晴れた空と調和をもった、一種奇妙な美しさをもっていた。敵愾心《てきがいしん》もなく、戦闘心もない、粋な観賞精神が、思わず弾と一緒に開いた響きである。私はこの世界を上げての戦争はもう戦争ではないと思った。批評精神が高度の空中で、淡淡と死闘を演じているだけだ。地上の公衆と心の繋がりは断たれている。それにも拘らず、観衆は連絡もなく不意にころころ死んでゆく今日明日。たしかに死ぬことだけは戦争だが、しかし、戦争の中核をなすものは、何といっても敵愾心だ。いったい、今度の長い戦争中で、敵と呼ぶべきものに対して敵愾心を抱いていたものは誰があっただろうか。事、この度の戦争に関する限り、この中核を見ずして、他のいかなることにペンを用いようとも無駄である。
 愛国心は誰にもあり、敵愾心は誰にもないという長い戦争。そして、自分の身体をこの二つの心のどちらかへ組み入れねば生きられぬという場合、人は必ず何ものかに希願をこめていただろう。何ものにこめたかそれだけは人にも分らず、自分も知らぬ秘密のものだ。しかし、人は身の安全のためにそうしたのでは
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