いる。石畳のゆるい傾斜の途中に山門が一つあって、左手に谷のように低まった平野が雪で掩《おお》われている。いま私の会おうとしている人たちは、この広い平野全面の村村に設計を与え、実行に押しすすめ、危機に応じる対策を練り、土地と人との生活の一切に号令を下している本部である。私と何の関係もない人人であるが、私はこの健康な人人の意志の片鱗をただ一言覗けば良い。この人たちの私に需めるものは、おそらく批評であろう。それらの人人の失望することは疑いないが、私にはただ利益あるのみであった。

 集りは本堂の北端にある和尚の書院だ。清潔な趣味に禅宗の和尚の人柄が匂い出ていて抹香《まっこう》臭なく、紫檀《したん》の棚の光沢が畳の条目と正しく調和している。正面の床間の一端に、学生服の美しい鋭敏な青年の写真が懸けてある。私はそれを振り仰いで伊藤博文に似た貌の和尚に訊ねると、長男で電信員として台湾へ出征中、死亡の疑い濃くなって来ているとの事である。すでに私は大きな悲劇の座敷の中央にいつの間にか坐っていたのだ。
「しかし、台湾なら、まだ……」
 と、私が云いかけると、
「いや、途中の船でやられたらしいのです。調べて貰いましたがね、もう駄目なようでした。」
 朝からの若やいだ私の気持ちが急にぺたんと折れ崩れて坐った。背面の山のなだれが背に冷え込むのを覚え、襲って来ている若い時代が傷つき仆《たお》れた荒涼とした原野の若木に見えて来た。今さらここで何の批評の口を切ろうとするのだろう。私はもう昨日の深夜、雪を掘り起した底かち格調ある歌を聞いてしまっている。あれが時を忘れた深夜の清江の祈りではなかったか。
 谷間から暗く夕暮れが来て人も揃った。私の横に村長、その横が前村長、順次に左右へ農会の技師、みなで十人ばかりの人たちだが、寒さは寺の畳の冷えからではなさそうだった。公益を重んじて来た老人たちの眼の冴え光っている慎しさに、しばらく部屋が鳴りをひそめ焙《あぶ》る手さきだけ温かい。そのうち膳部が出た。一番悲しみの深い菅井和尚が一番暢気な笑いを立てて、適当な話を出しているが、地平より高く巻き返して来ている災厄の津浪を望んで、目下の方寸誰が何を云えようか。も早や一座の人人は、何もかも知りきっているその後の会話で、今夜は私を慰めてやろうという好意ある会合と分った。
 清酒が温まる程度に出て、刺身、いくら、鳥雑煮、しるこ、等、禅堂の曇らぬ美しい椀と箸の食事となって、切り口を揃えた菜の青いひたし物が雪の夜の歯を清めた。私は本当にこの食事に感謝した。感謝のしるしに何か、と思うと、何もないかなしさに瞬間襲われたが、また胸中駈けめぐって見ても何もない。ほッとそのとき出て来たのが、
「昨夜は面白かったですよ。深夜にね。」
 という醜態になった。ところが、この参右衛門夫婦の短い昨夜の饗宴の話は、ひどく皆を慶ばせた。特に老人たちは一層慶びにほころび、和尚はたいへんな感動の仕方で、
「それは珍らしいお話だ。ふむ、それは良いところを御覧になりましたね、ふーむ。」
 と云うと、それから話に花が咲き始め、座は急に賑かになっていった。

 これらの雑談の中で、いつも黙っていた一人の農業技師だけは笑わなかった。参右衛門夫婦の話は、老人でなければ興趣の薄らぐ種類にちがいないが、若いこの技師の胸中で鳴りつづけていたものは、他にあった。この人は一言何かぼつりと口を開くと、同じことばかりを繰り返した。
「目下農家に行わせることは、ただ一つ、三度の米の食事を二度にして、中の一度だけ何か米より美味いものを作らせ、これを代用にする、そして、一食分だけの米を増やすことですが。」
 技師にとっては、平野を隅から隅まで点検してみた結果の行い得られる緊急の処置は、これだけらしい口調だ。おそらくそうだろう。
「しかし、米に代る美味いものというと―――」
「まア、麦でしょうが。」
「しかし、それは米には敵わぬでしょう。」
「そうだと困るのですが。しかし、まア、それよりありませんから。」
「しかし、現在の状態で、麦にしたって、これより以上の収穫を上げるということは、出来るものでしょうかね。」
「出来ませんね。ですから、一ヵ村につき五町歩平均に新しく開墾させる計画をしております。そして、そこへ麦を植えさせます――」
「五町歩ならどこも可能なわけですか。」
「それは出来ます。」
 具体的な実行案が出来ている以上は、もう中心の話題はこれで済んだことになる。その他の話題は――鹿爪らしく切り出せば、土地整理問題、耕作地の半分は地主の所有地であるこの村の小作状況、それに起って来る経済の問題。そして、これらが日本経済の枠の中から商工業に引摺られ当然に転換せられる世界経済の波の中での浮き沈み、ということなど、予想はどこまでも切りがない。しかし、私
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