田畑とは縁遠い、ぬらりとした気詰りで、半被《はっぴ》を肩に朝湯にでも行きそうだ。
「おれは金はない。金はないが、あんなものは入らん。食えれば良いでのう。こうしておっても食ってゆかれる。どうじゃ、あんたはそう思わんか。」
と、参右衛門は云ったことがある。初めは冗談かと私は思って黙っていると、意外に真面目な眼差しで彼は問いつめ、じっと視線を放そうとしなかった。
「実は僕もその方でね。」と私は苦笑した。
参右衛門は酒代で財を潰《つぶ》した自分自身の過去に、少しも後悔していなかった。彼は思うことを実行してみたのである。そして、来るべきことに突きあたったその底から、鋭い表情を上げているのだ。しかし、久左衛門は彼とは反対だった。あるとき、彼は私に、
「何というても金がなければ駄目なもんだ。」とひと言|洩《もら》したことがある。これも自分の思うことを実行してみて、結果はそのままに現れて来たのだ。
この久左衛門と参右衛門が、まったく地位の転倒した別家と本家の関係にあり、それも三間の空地をへだてた隣家で、酒を飲み交している場では、定めし酒乱の殴打はなみなみならぬ響きが籠っていたことだろう。
「おれと参右衛門と仲が悪うなると、村のものは喜ぶ。仲が戻ると、いやそうな顔をする。この頃は参右衛門も、おれのいう通りになるので、村のものには面白うないのじゃ。はははは。」と久左衛門は眼尻を細めて笑った。一度も激したことのないような笑顔である。
八月――日
雨過山房の午後――鎌|研《と》ぐ姿、その蓑《みの》からたれた雨の雫。縄なう機械の踏み動く音、庭石の苔の間を流れる雨の細流。空が徐徐に霽《は》れるに随い、竹林の雫の中から蝉の声が聞えて来る。群り飛びまう蝿の渦巻――
この二十八戸の村から十七人出征している。そのうち二人だけが帰って来た。先日、湯の浜へ行ったときのことだが、汽車から降りて来て、今しも故郷へ入って行こうとしている復員の兵士が二人、電車の昇降口で話していた。どちらも勇敢そうな、逞《たくま》しい身体で、見ていても気持ちの良くなる青年である。
「あーあ、半年おれは、ぐっすり寝たいな。」と一人が、電車の継目の欄干にもたれ、顔に真正面からかッと日を浴びて云った。
「弾の下くぐることなら、あんなことは平気だが、眠いのはのう。」と背の高い美男子の一人が云った。
そこへその兵士の故郷の知人らしい老人が乗って来た。顔が合うと、美男の兵の方が、
「敗残兵が帰って来たア。」
と、いきなり云って笑った。老人は、「わッはッはッ。」と笑ってから、肩を一つぽんと叩いた。それでおしまいだった。日本人らしい笑いだ。
電車が稲の花の中を走り出し、次ぎの停留所まで来たとき、またその兵士の知人らしい、美しい若い婦人が、小さな子供をつれて乗り込んで来た。
「あら、お久しぶりですのう。」と婦人は、にこにこして嬉しそうに兵士に云った。その笑顔のどこかに、むかしの恋人にちかい俤《おもかげ》すらあった。
「敗残兵が帰って来たア。」
と、また兵士は同じことを繰り返して笑った。すると、今までにこにこしていた婦人は、急に笑顔を消し、俯向《うつむ》いたまま、
「どうしようもありませんでのう。」
と、悲しそうに云ったきり、もう顔を上げようとしなかった。兵士の方も的を射すぎた不手際な苦しさで、眼をぱちぱちさせて外《そ》っぽを向いたまま、これも何も云わなかった。
三度目の停留所まで来たとき、そこでもこの兵士の知合いが乗り込んで来たが、このとき兵士は、
「やア、お暑う。」と云って、軽く頭を下げたきりだった。
横にいた別の兵士はどこまでも黙黙として一語も発せず、笑いもしなかったが、彼の降りる停留所まで来たとき、ぎっしり詰った重い軍袋を足で蹴りつけ、プラットへ突き落した。日に耀いた鳥海山が美しく裾を海の方へ曳いている。稲の花の満ちている出羽の平野も、このような会話を聞いたことは、おそらく一度もなかったことだろう。
私は海際にあるその電車の終点の湯の浜で兵士と一緒に降りた。袋を背負い、人のいない砂丘を越して自分の家の方へ消えて行く兵士の後姿を見ながら、私もまた一人で、その丘を登った。浜茄子《はまなす》の花の濃い紅色が、海の碧さを背景に点点と咲いている。腰を降して私は膝を組んだ。ここは私が妻と結婚したその夏、二人で来た同じ砂丘で、そのときは電車はなかったが、こうしてここで浜茄子の花も見た。それから二十年の年月紅色の花にうつろう愁いは、今もまだ私に残っているが、もうむかしのようなものではない。私は砂丘の向うにある兵士の家を想像し、その入口へ這人って行くときに、最初にいう彼の言葉も分っている。すべてが私らと無関係なことではない。私は人のいない大衆浴場へそれから行って服を脱ぎ、木目のとび出た
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