に疎開者から高値の米を買わされているという滑稽な話など、そんな山奥生活の話も聞えて来てどの炉端も哄笑が起っている。
「都会のものはどれほど金を持ってるものやら、もう分らない。幾らでも持ってるもんだ。」
と、こういう村のものらの結論は今はどこでもらしく、私などの所持金もうすうす皆は見当をつけているのであろうが、中に一軒、疎開者を置いているある農家のもので、うちの疎開者は少しもうちから物を買ってくれたことがないと云ってこぼしているのもある。私としては、他で金を落すものならこの村で落して行きたいと思っているのだが、買いたいと思うと、「おれんとこは商売はしたことがないでのう。」と、暗に私係りの久左衛門に当ったことを云ったりする。
十一月――日
川端康成から三千円送ってくれた。鎌倉文庫の「紋章」の前金だが、一度も催促したこともないのに、見当をつけたようにぴたりと好都合な送金で感謝した。これでひと先ず帰り仕度は出来たとはいえ、終戦以来最初の入金のためか、再び活動をし始めた文壇の最初の一息のようで、貴重な感じがする。
立ちこもった霧雨の中から糸杉、槙の葉、栗の枝が影絵のように浮き出ている。参右衛門の家では今日は刈上げ餅を夕方から搗き始めた。夜のお祝いに私たち一家のものも隣室の仏壇の間で御馳走になった。中央の大鍋いっぱいにとろりと溶け崩れた小豆餅、中鍋には、白い澄し餅がいっぱい。そして、楕円形の見事な大櫃には盛り上った白飯が置かれ、それを包んで並んだ膳には、主人の参右衛門がこの日磯釣りして来たあぶらこ[#「あぶらこ」に傍点]という魚が盛ってある。主人の横に、まだ復員しない長男の蔭膳が置かれてあって、これとその嫁の膳と並んで二つだけ高膳である。
私ら一家疎開者の客には、粒粒辛苦一年の結実ならざるなき膳部が尽く光り耀くごとき思いがした。厚い鉄鍋で時間をかけて煮た汁や餅は実に美味だ。あぶらこ[#「あぶらこ」に傍点]という魚は長さ四五寸の小さなものだが、このあたりではこの魚を非常に珍重する。なまずを淡泊にした細かい味のものだ。
その他、醤油も味噌も、そば、納豆、菜類、これらは皆、ここの清江一人の労働で作ったもので、「雨の日も風の日も」と、人の謡うのも道理だと思った。由良の老婆もこの夜は私の前の膳について神妙に食べている。参右衛門はどこで手に入れたものだか珍らしく私に一献酒を注いでくれた。久しぶりの酒である。いつも祭日より帰って来ない参右衛門の末娘のゆきも来ている。この村の一番の大地主の所へ奉公している十七の娘だが、長男の嫁と二人並ぶと仏間も艶めき、その傍ら忽ち平げていく天作の手つきも鮮やかだ。初めはどうしてこれだけの餅と飯と汁とを食べるだろうと思っていると、見る間に八方から延び出る手で減っていくその迅さ、私の食慾などというものは生存の価値なきがごときものだ。やはり私は見るために生れて来た人間だとつくづくと思った。
十一月――日
澄み重なった山脈のその重なりの間に浮いた白雲。刈田の上を群れわたっていく渡鳥。谷間で栃の実がひそかに降っている。
久左衛門は田の中でまだ稲刈をしている若者を見ながらいう。
「おれの若いときは一時間に二百五十束もしたもんだ。ところが、今の若いものは、よく出来るもんでも百二十束だのう。ほら、あの通り、掴んで刈った束の置き方も知らんのじゃ。掴んで切りとったのをすぐ横に置く。あれは縦に置かぬと駄目なものじゃて。」
「あなたの田はまだ刈り上らないんですか。」と私は訊ねた。
「今年は三週間も遅れている。稲が乾かぬのじゃ。奥手はこれからだのう。」
少し日の目を見ると架《はさ》の稲を一枚ずつ裏返して干している。田の稲を刈っても米になるまでには三週間もかかるというとき、早米の収穫でようやく補給をつけていた農家も、稲の乾きの遅さでまた食糧を借り歩くようになり、久左衛門の家の貯蔵米がまたしても人人から狙われて来たということだ。一度退散した久左衛門の気苦労は再び増して来始めた風である。
「ないのも困るが、有るのも困ったものじゃ。」と彼はとうとうそんな音をあげた。
由良の老婆の利枝はまだ久左衛門の所から帰らないが、今日も参右衛門の炉端へ駈けこんで来て、
「とうとう婆アと喧嘩してやった。姉妹だというのに、もう米も貸してくれやせんわ。剛っ腹だぜ、そら、持って来てやった、食べよ食べよ。」
と云いながら、前垂の下から野菜や芋の煮つけを出す。清江は笑っているだけだ。由良の漁場では東京の網元が焼失してしまっており、網の修繕が出来ず、油も高くて来ないところへ、復員の子が一人増し、米は何としても久左衛門の家から都合をつけずにはいられない。せつ子の結婚式用の魚を揃える約束で今から米を催促している老婆の苦労は、こうして朝毎の姉妹喧嘩となって、
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