たことがある。私は外国から帰った直後のこと、何とかしてじかに一度土地というものへの愛情を感じて見たくなり、少し自分で持ってみたいと思ったことがあって、義弟のいる玉川附近を二人で歩き廻ったある日のこと、むかしの神社の跡で八幡山という小高い丘の前へ立った。
「いいな、ここは。」と私は云った。
 私はそこを買いたかった。赤松が沢山生えている傾斜地で、手ごろなここの空地は日をよく浴び草も柔かった。
「いいけれども、この赤松で首吊りがあったのですよ。」と義弟は一本の枝ぶりの良い松をさして云った。
 ふと文句なく私は不快になった。
「じゃ、駄目だ。」
 しかし、惜しい傾斜の中ごろのところで、その一本の赤松だけ不相応に延び下った枝で体を傾け、滑かな肌に日をよく浴びて美しかった。それから一二年の後再びその小丘の前に立ってみると、そこだけ縄張りのしてある中に、東条英機建築敷地という立札が建ててあった。いやな所を買ったものだ、僕さえ止めたところだのにと思っていると、間もなくそのあたりは美しく切り開かれ、眼醒めるばかりの広闊な場所に変っていた。
「ところが、どういうものか、結果はこんな風になってしまって、もし僕がそのときあそこを買って置いたら。」
 私が笑うと久左衛門は、「ほう、ほう。」と鳥の啼くような声を出してから、
「首吊りはのう。」と云って黙った。
「二代目はピストルだが、やはり、首のところだ。」
 しかし、久左衛門には話はそこで止めねばならぬ不便もあった。何ぜかというと、彼は人の云うように、寺で物を売って儲けた人だからである。どうでも良いようなものの、それはやはり、どことなく云い難いものがあった。つまりはそこが彼の不幸な部分というべきものだろう。やはり、このような保守的な、限りもない習慣ばかりの村では、悲劇の種類も自ら違って来るのだ。そこがいつも話していてむつかしいところである。

 十一月――日
 稲刈はまだ終ってはいない。悪天の連続でどの田の進行も遅遅としている。私は農家の収穫を見おさめれば東京へ帰ろうと思っているが、雁が空を渡っていく夕暮どきなど、むかしこの出羽に流された人人も恐らくこのような気持ちだったであろうと思われて、東京の空が千里の遠きに見え、帰心しきりに起ることがある。しかし、妻は反対で、このままここで埋もれてもいい、どこへも行きたくないという。
「しかし、いつまでもここにいたって仕方がなかろう。」
「じゃ、あなたはそんなにお帰りになりたいんですか。」
「特に帰りたいというわけでもないが、僕はここの冬は知らないからね。」
 冬のことに話が落ちると妻も黙る。出羽で育った妻の実家の一族も遠い時代は京から来ている模様なので、冬の来るたびに夫婦の間で繰り返されたこんな言葉も、終生つづいたことだろう。また東京の冬は一年のうちでも一番良く、雨も風も少くて光線はうらうらとして柔かい。冬の東京を思うと私はもうたまらなく懐しいが、こんなとき久左衛門はやってくると、一丈もつもるここの吹雪のことを云ってから、
「ここの鱈《たら》は美味い。ここの冬の鱈は格別じゃ。」
 と、ただ一つだけ良いことを云っては、食い物でつい私の決心を鈍らせる。私はまた寒鱈が至って好きだ。それも良いなア、とふと思ったりする。
 こんな気がふと起るとなかなか後が厄介だが、半道の長い駅までの吹雪の中を一番の汽車に間に合せて、それから三駅鶴岡まで通う中学一年の私の子供のことを思えば、私より一層この冬は子供にとっては難事なことだ。
「ここにいるのは、幾らいてもらっても良いでのう。」と、久左衛門は私に云うが、参右衛門はそうすると、
「いられんと思うの。初めてのものには、冬は無理じゃ。」という。

 一つの家に他家族との雑居は、どこまでこちらが他の方を邪魔しているのか程度が分らず、その不分明な心の領域がときどき権利を主張してみて暗影を投げる。影は事の大小に拘らず心中の投影であるから、互いの表情に生じる無理が傷をつけあう。しかし、こういうことはここの農家ではあまり生じない。参右衛門の無作法さや我ままは怠け方同様に傍若無人で立派である。

 十一月――日
 自分はいったいいつまで続く自分だろうか、よくも自分であることに退屈せぬものだ、と私はあきれる。外では、ひと雨ごとに葉を落していく山の木。茂みは隙間をひろげて紅葉を増し山は明るい。部屋に並べてある種子箱で、小豆が臙脂《えんじ》色のなまめかしい光沢を放っている。毛ば立った皮からむき出た牛蒡《ごぼう》の種の表面には、蒔絵に似た模様が巧緻な雲形の線を入れ、蝋燭豆のとろりと白い肌の傍に、隠元《いんげん》が黒黒とした光沢で並んでいる。しかし、これらももう私の憂鬱な眼には、ただ時の経過を静に支えていてくれる河床の石のように見える。
 赤欅の娘が秋雨の
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