って来た。田へは殆ど出ない彼だが、何ぜだか彼も今日はにこにこ笑って這入って来る。
「芽出たいぞ、今日はうちの稲の中に鳥が巣をくっていた。卵もあったぞ。」
 稲の中に鳥が巣を作ると家運の興隆するきっかけを意味して、このあたりの農家では羨望され、餅を搗《つ》いて祝うものだとの事だ。夜も参右衛門は来るものににこにこして炉端で鳥の巣の話をした。
「御苦労が報われたんでしょう。」と私の妻は云った。
「そうだと良いがの。」
「あなたの御苦労じゃありませんよ。小母さんのよ。」
「おれは苦労をかけた方かな。」
 何を云われても参右衛門は嬉しそうだった。清江はぼろぼろに歪んだ編笠の破れ目に青笹の葉をあて、繕いながら、
「まだ指さきがしびれての。真直ぐにのびないんだよ。こんなだ、ほら。」
 炉の方へ足を向けて寝ていた清江の末の子が、薪の火の舌が廻って来るたびに、眠っていてもぴりぴり足を縮めている。上機嫌のこんな一家の夜は近来ない。思わず私もその炉の傍で夜ふかしする。

 十月――日
 降ったりやんだりしている天気だ。風も出て来た。およそこれほど悪天の続くところはあるものだろうか。ほんの二三分間密雲が破れて日が照ったかと思うと、また雨になり風になる。激しい変化ながら、海の方にある山が次第に明るみを加えて来た。
「こんな雨の多い秋はないもんだのう。」と久左衛門は来て云う。
 顔を雨に濡らした子供たちは、山の樹に絡まったあけびの実を懐いっぱい詰め込んで来て、ごろごろッと炉の傍へ投げ出した。そして、味噌を中につめ、油を皮に塗って火で焼いて、うめいぞ、これはという。どこの農家も人が出払っている留守の炉に、火だけは燃えている。猫が背を丸めた閑散な午後になったと思っていると、また強くなった風に木の葉が飛び廻り、色づき始めた柿の実が葉の吹っ切れた枝から、目立って顕れて来る。見定めなき一日の天候。

 この夜、自分らの田を全部刈り上げた参右衛門夫妻が、鳥の巣をもって帰って来て仏壇にそなえた。穂のついたままの新藁が、納豆の包みのようにふくれた中に三つ小さな卵がある。久しく見えなかった空に星が出ている。騒がしく鳴る竹林の風の音を聞きつつ、参右衛門と清江は、明日から稲刈の手伝いに出て行くさきの相談をした。主人の方は長男の嫁の実家へ、清江の方は、自分の実家の組合長の家の田へと。いつもよりこの夜二人は早く寝室へ這入っていった。むかしは人から手伝って貰わなければ刈れなかった彼らの広い稲刈だったのに、今はその反対で、鳥の巣の夢を抱いたようなさみしさがしっとり夜をこめている。何となく、しんと淋しい夜だ。

 十月――日
 久しぶりの好天だ。風がまだ残っているので、高い梢の桐の実が真っさきに乾いていく。野葡萄の汁が瓶の中で酒の匂いをたてている。酢を作る青柿の皮が樽につめられた。納豆の粘液をためす火箸が藁の中へ刺さり、天井の明り口は煙を吸い上げ、塗戸の杉の目が炉の焔の色を映して明るい。

 私は妻と二人で裏の山へ柴刈りに出かけた。二人の目的は十二三分で登れる鞍乗りの峠まで行くことだが、この峠までの坂は息苦しい。焚木を拾い拾い登ると一歩ごとに、平野は眼の下に稀に見る美しい全貌を顕して来る。私は煙草用のいたどりを採りに一人でよくここへは来たものだが、妻は初めて登るので、なるたけ柴より景色を見せてやりたい希望を持って来ているのに、この女人はどういうものかまた柴ばかり探している。そのうち私は少し腹が立って来た。
「たまに来たんじゃないか。もっと景色を見なさい景色を。」
「だって、もう見たんですもの。」
「これだけの景色は、そうざらに有るもんじゃないよ。絶景といってもいい。」
「絶景だ絶景だと仰言るもんだから、どんなにいいかしらと思っていたわ。こんなの、山と田ばかしじゃありませんか。」
 しかし、景色というものはそういうものかもしれないと私は思った。どこが良いのかと考え出したが最後、どのような景色だってもう駄目なものである。
「お前は小さいときからこのへんの山の景色に見馴れているから、珍らしくないのだよ。他国人の僕がお前の国の景色に感心してやってるのに、心の分らない女だなア。柴より頭だ。」
「いいえ、あたしは柴柴。」
 自分の一生は何んだかふとこれに似たことばかしのような気がして来たが、しかし、私はこれで良いのだと思った。谷間いっぱいに生えているいたどりはもう黄色く枯れかかっている。私は随分これで煙草の代用として助かったのだが、今のうち採って置かぬと用にはならぬかもしれない。峠まで登ったところで、下に秋の冴えた海が見えて来た。馬の背に跨がった感じのこの鞍乗峠はいつ見ても眺望は優れている。私はもう夫婦喧嘩はやめにした。ほとんど垂直になだれ下った草原の断崖に挟まれた海面は、今日は穏かだ。右手の平野
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