つことが肝要かと思う。
十月――日
雨がよく降るようになった。昨日も今日も大雨だ。ラヂオでは全国的な雨で汽車も停った報道が各線に見られるようだ。実のない稲、腐る稲、流される稲、砂をかむってとれぬ稲――米は不作どころではないかもしれぬという予想が、どこの農家にも拡がった。これでは、ここでとれた僅かな米も、どのような運命にあわされるか知れたものではないという恐怖も一緒になった。
雑草の中の水音が高い。竹林の先端が重く垂れ、その滴りの下で鯉が白い髭をぴんと上げて泳いでいる。
人が集るときは、必ず実行組合長兵衛門の悪口を云う。いつものことだが、このごろは特にそれが激しくなって来た。攻撃の仕方は千篇一律、よくあのように同じことを繰返し云えるものだと思うほどで、そのねばりっ気が恐ろしい。ねっちねちと、ぶつぶつと、官能さえ昏ますようだ。
「米を出せ出せと云って、皆出させ、村の者の喰う米をみなとり上げて置いて、名誉を一人で独占した。」とこういう。
これは一種の合唱にまでなっており、慰めでもあり、病的な愚痴の吐きどころだが、雨が降ると、かく愚痴が困苦の思い出とも変るらしい。ところが、この実行組合長兵衛門の母親という人は、こっそり私のところへ野菜をくれる。参右衛門の妻女の清江が、私たちの困っていることを自分の実家のこととて話したらしい。いつかここから味噌漬も貰ったことがある。その漬物の美味だったこと、私はこのような漬物を食べたことはまだなかった。村民総がかりの悪口の中から掘りあてた、見事な宝玉を味わう思いで私はこれを口中に入れ愉しんだ。
味噌と大根との本来の味が、互いに不純物を排除しあい、そのどちらでもない純粋な化合物となって、半透明な琅※[「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》色に、およそ味という味のうち、最も高度な結晶を示している天来の妙味、絶妙ともいうべきその一片を口にしたとき、塩辛さの極点滲じむがごとき甘さとなっているその香味は、古代密祖に接しているような快感を感じたが、誰か人間も人漬けの結果、このような見事な化合物となっている人物はないものかと、私はしばらく考えにふけった。大根だってこれだけの味を出せるものなら、人は容易に死にきれたものではない。それとも、そんな人間を味い得る人間がいないのかもしれぬ。
「兵衛門のことを人はみな悪口ばかりいうが、あの人だって、組合長になりたくないというのを、皆が引っ張り出して、ならせたのだからのう。」
と、清江は私の妻に、自分の実家をこっそり弁明した。
「いやだいやだ云うのに、無理矢理にならせての、――お上のいう通りにしたのが悪いのなら、どうしようもないだろうに。」
私はこの兵衛門を一度だけ見たことがある。四十過ぎの、愁いのあるひき緊った美男で、格子の外からちらりと眼に映ったばかりの感じでは、運の悪そうな人である。
この村の近くの村に、供出係りで、供出量が不足し責任を感じ自殺したものが一人いる。長い戦争中、このような責任観念のつよかった供出係りは全国に一人もなかったことは、これは東京の新聞も報じて有名なことだが、私のいるこの村も、それと似たところもある、どこの村より真っ先かけの立派な完納ぶりが、敗戦の結果、今になった米不足で、組合長だけ攻撃されて来たのである。
「あなたはどこにいらっしゃる。」
と私は鶴岡の街で人からよく訊ねられるが、西目だと答えると、ああ、あの村は良い村だと誰もいう。
十月――日
葱《ねぎ》の白根の冴え揃った朝の雨。ミルク色に立ちこめた雨の中から、組み合った糸杉の群りすすんで来るような朝の雨だ。峠を越えて魚売りの娘の降りて来る赤襷《あかだすき》。その素足、――参右衛門の炉端へ人が集っている。どうやらこのごろになって、村民は私をも隣組の一員として取扱ってくれるようになって来た。私も観察を止めよう。またそれも出来そうになって来ている。組長がこの集りの炉端へ役場からの報告を持って来て、云うには、――
国旗は命じたときでなければ出してはならぬ、道路は左側通行の厳守、十四歳以下の子に牛馬を曳かしてはならぬ、武器刀剣ことごとく提出すべし、以上、進駐軍からの命令だとの事だ。そして、組長は、
「これに違犯すれば、どう罰を食うか分らんぞよ。」という。
「そうか、そんなら、こうはしてはおれん。」
さっそく参右衛門は立ち上り、竹筒から、竿《さお》に縛りつけたままの国旗の小さいのをとり脱した。それから床間にかかった武運長久の掛軸も脱して巻いてしまう。
「やアやア、ひどいことになったわい。天子さまの写真だけは、良かろうのう。」
と、鴨居の上の御真影を見上げていて、これだけは脱そうとしなかった。
「ああ、負けた負けた。」と、一人がいう。
「供出のさせ方が、おれらを瞞し
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