いだろうが、神を気持ちといったのは、私も自然な説教を聴くようで彼から米を貰うよりはどことなく気持ちも良かった。
「もう僕はあなたから米はもらいたくはない。」とひそかに心中で私は云っている。皮肉ではない。私が彼に米をやりたくなって来るのだから。
十月――日
透明な光線の中を風が騒ぐ。眉へ突きあたる蝿のかたまり。樹の幹を辷り降りてくる蛇の首。畑にのびて来た白菜。はげしく群れ飛ぶ赤蜻蛉《あかとんぼ》の水平動。集り散っていった食卓の菜類の中でまだ青紫蘇だけが変らず出てくる。
稲刈――このごろの稲刈は中手だ。この中手は先日の暴風にあって実りが悪い。稲の穂の垂れ曲った方向に風が吹かず、逆に吹きつけられたそのために、茎から折れ、以後の天候の良さも結実には役立つこと少い。全国的な不作と判明する。供出の命令がいまだに方向さえ明さずじっと沈黙している無気味さ。これに随って農家もしだいに沈黙を守って来た睨み合い、この間で、温泉場からの闇買いがどんな値で忍びよるか。触覚は繊細な震動をつづけている。表面鈍感さを装っているとはいえ、内外刻刻の多忙な変化に応じ、ひそかに沈黙のまま色を変えてゆきつつもあるようだ。
滅多に人のことを賞めないこの村で、誰からも賞められているものは、私のいる家の参右衛門の妻女の清江と、別家の久左衛門の長男の嫁とである。この二人は、私も見るたびに賞めてやりたくなって、妻と二人きりのときは、こっそりこの二人のことをどちらからともなく賞めている。清江は稲刈からちょっと帰って来るとその暇を見て、自分の長男の嫁の新しい藁蒲団《わらぶとん》を作りかえてやっている。実に手早い。
「おれの嫁のときは、姑から随分大切にされたでのう、自分の嫁も大切にせんとすまんでのう。」とこういう。
嫁にも嫁の伝統があるものだ。妻は私の傍へ来て、
「あたしもお姑さんがほしかったわ。」と、神妙な顔で云った。
どういう了簡か私も笑い出した。「まア、そしたら三日だね。」
「そうかしら。でも、あたしはそしたら、こんなに我ままにならなかったと思うわ。」
「嫁の苦労なんて、人生で一番つらいことの一つだよ。最たるものかもしれないね。」
「いえ、あたしはやってみせる。」
私は唖然として妻の顔をみていた。しかし、姑がなくて倖せだったと云われるよりもまだましだ。辛抱出来るかな、出来ないね、とまた私は思った。
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