の水原在の実家に疎開していた石塚友二君から葉書が来る。発信地は福島の郡山からだが、川端康成から鎌倉文庫へ入社の奨めをうけ、目前明らむ思いで今汽車に乗っているところとある。胸に灯火をかかげ、鎌倉へ向って進行していく夜汽車が眼に泛ぶ。だんだん灯の点いていく希望ほど美しいものはない。暗黒の運命の底にも駅駅があり、そこを通過して縫いすすむ夜汽車の窓よ。元気を失うことなかれ。
どんなことが世の中に起ろうとも、例えば、現在のように世界がひっくり返ろうと、何の痛痒も感じない人物がいるものだ。農家の中には、ときどきそのようなものもある。まるで働く場所そのものの田畑以外は、世界は彼らにとって幽霊のようなものだ。いや、むしろ、日本が敗けたがために彼らは儲けているという苦しみと喜び。しかし、それとはまったく別に、敗戦を喜ぶ苦痛もあるにはある。そして、それらの心が喜びを抱いて現れて来つつあるということの苦しい裏には、人間よりも、人類を愛することだと思い得られる、ある不可思議な未来に対する論法をひっ下げていることだ。今のところ土産はまだ論法であって、人間ではない。世界をあげての人間性の復活に際して、人間性を消滅させたこの人類論法の袋の中から、まだ幾多の土産物が続続とくり拡げられてくることだろう。それが善いか悪しいかは、残念なことにまだ私には分らない。ただ私に分ることは、何となく残念なことだけだ。
九月――日
現在のわが国の文学者は、自分の心のどの部分で外界と繋がっているのであろうかということ。自分らは日本人なりという定義と、自分らは東洋人なりという定義と、自分らは世界人なりという定義と、自分らは敗戦国なりという定義と、これらの四種の定義が出されている。そして、その中の一つを選定してそれぞれ幾何学をしなければならぬという場合が起れば、文学者の心はどの定義を選ぶかという問題だ。
勿論、文学は幾何学ではない。それなら、定義は無限に初めへ逆のぼって、文学とは定義そのものだと云わねばなるまい。「ポツダム宣言を承諾す。」という厳然明白な定義。この定義一つで日本全員の生命は救われたのだ。それぞれの幾何学は、ここから無数に展開して、われわれは民主主義国民なりという命題の証明にかからねばならぬとすれば、この際、証明するとは、その命題の意味する実行にかかることか、それとも、すでに国民の中に有るもの
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