この村の米は平野のものから美味だといわれていること、ところが、久左衛門の家の米は、この村の中でも一番美味であるということなどを考えると、――彼は日本一の米作りの名人ということになりそうだ。まだ誰も、そんなことを云ったのではない。しかし、押しせばめて来てみると、他に適当な論法のない限りは、そう思ってみる方が、私だけには興味がある。たしかに、同じ注意を向けてみるなら、ひそかに私はそう思うことにしてみたい。
「おれは小さいときから算術が好きでのう。」
と久左衛門は云った。「今の若いもののやることを見ていても、おれよりは下手だのう。おれは算術より他に、頼りになるものは、ないように思うて来たが、やっぱりあれより無いものだ。」
またこの老人はこうも云った。
「みんな人が働くのは、子供のためだの。おれもそうだった。」
禿《は》げた頭の鉢は大きく開き、耳の後ろから眼尻にかけて貫通した流弾の疵痕《きずあと》が残っている。二十二のとき日露の役に出征し、旅順でうけた負傷の疵だが、このときの恩給が唯一の資本となり、峠を越した漁村の利枝の家へ、縄と筵《むしろ》を売りに通った極貧の暮しも、以来|鰻《うなぎ》のぼりに上騰した。彼の妻のお弓は利枝の妹で、本家の参右衛門の母の妹にもなる。久左衛門は隣村から養子に来たとはいえ、前から本家とは親戚で遠慮の不要な間柄だ。
「この村は二十八軒あるが、参右衛門の家は一番の大元だ。前には財産も一番だったが、今はその反対だのう。みなあれが飲んだのだ。はははは。」久左衛門はそう云ってから私に声をひそめて、「あんたに一言いうて置かねばならぬことがあるが、一つだけ気をつけておくれんか。あの参右衛門は人の良い男だが、飲んだら駄目だから、そのときはそっと座を脱して隠れて下され。あれはひどい酒乱でのう。おれは殴られた殴られた。もういくら殴られたかしれん。おれはじっと我慢をし通して来たが、あの大男の力持ちに殴られちゃ、敵《かな》うもんじゃない。恐しい力持ちじゃ。」
参右衛門は四十八だ。巨漢である。いつも炉端に寝そべっていて働かないが、無精鬚《ぶしょうひげ》がのびて来ると、堂堂たる総大将の風貌であたりを不平そうに眺めている。剃刀《かみそり》をあてると、青い剃りあとに酒乱の痕跡の泛び出た美男になる。農夫とは思われぬ伊達《だて》な顎《あご》や口元が、若若しい精気に満ち、およそ
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