私は妻と二人で先きに立つことにした。
「何んだか、子供から逃げて行くようですわね。」
 と妻はしょんぼりしていう。
「たまにはいいだろう。温泉行きも十年ぶりだからね。しかし、宿屋はやっているかどうだか分らないから、それが少少心配だ。」
 駅まで泥路を跳び跳び行くのにも二人は何となく気も軽くなったが、降ったりやんだりしている雨の中で、開業不明の行く先きの宿を思うと少し無謀だったかと思う。それでも子供たちから逃げて行く感情は、妙に捨てがたい新鮮なものがある。
「今日は悪る親だねどっちも。」
「そうね。何だか、おかしいわ。」
 金錆汁の流れ出た駅までの泥路も、二人で逃げるのだと思うとそんなに遠くはないものだ。醤油と味噌と米とを下げているのに、それもそんなに重くはない。
「残った二人は、鬼のいない間の洗濯で、今夜はさぞ凱歌をあげることだろうな。」
「そうよ、嬉しくってたまらないでしょうきっと。」
 上り汽車はすぐ来たが非常な混雑だった。そこへ無理に捻じこむように妻を乗せ、遅れて私が乗ろうとすると、中から私の脇腹を擦りぬけて一人跳び出て来た小僧がいる。見ると次男だった。背後から肩をぴしゃりと一つ打って、
「おいおい。」
 跳び降りた次男は振り向いたが、そのときもう発車し始めた。
「おい。明日来るんだよ。」と私は云った。
 温海行をまだ知らぬ次男は何のことか分らぬらしくプラットに突き立ったままこちらを見ている。混雑と汽車の音で聞えぬらしい。顔が蒼くなっている。
「来るんだよ明日。」
 またそう云っても一層子供には聞えぬ風で、汽車は離れていった。

 温海へ着いたのは五時すぎだった。バスはどれも満員でやっと来たのは故障だ。雨の中をまた二人で歩いて滝の屋まで行った。もう真暗だった。この宿屋は戦前私たちは毎夏来たのだがそれから十年もたっている。私はこの温泉が好きで何度も書いたことがあるのに一度も名を入れたことがない。戦争で定めし荒れたことだろうと思っていたが、今さきまで海軍の傷病兵の宿舎にあてられて満員だったのが、今朝から開放されて空だということであった。部屋も川添いの良い部屋があてられた。
「あなたさん方が初めてのお客さんですよ。運の良いお方です。」
 と、主婦は云う。この主婦とも十年も見ないが一向に年とった模様はない。ともかく良かった。疲労でぐったりした上に空腹で動けない。薬品の
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