自身の心情を表現し得るということはもう出来ないのにちがいない。すべてを普通のこととしてしまう本能の自然さといえども、今までは、そこにまだ連絡した心理があった。しかし、今はそれもない。人生にはいつも幕間が用意されているものだが、この幕間は人のものか神のものか分らぬながらも、どこかの一ヵ所だけ森閑とした部分がある。そこでひそひそ声がしているようだが、おそらく、それは人の声ではないのだろう。
そら芝居が始まった、と云って、子供らは釈迦堂の方へ駈け出ていく。特攻隊も出ていった。その後で、参右衛門と青年の父親とがなお二人で飲み続け、舌の廻りも怪しくなって来るのを私は隣室で聞いていると、いつまでも絡み合っていてきりがない。参右衛門は濁酒を作ってくれと頼まれて、お礼をすると云われたのが気に喰わぬ、水臭いと云って怒っている。それをまた特攻隊の親父が弁解する。この二人の酔漢の芝居が止み間もないその中に、寺の芝居は済んで特攻隊が戻って来たが、参右衛門ら仏間の「水臭さ」劇は止まる様子もない。とうとう一時だ。そして、最後の二人の科白は――
「もうじき、共産主義になるそうじゃ、面白いのう。あはははは――」
「とにこうに、おれは、礼をされて作るとあれば、いやじゃ、そんなのは、おれは――」
「共産主義になったところで、おれらには、何もないでのう。あはははは。」
「とにこうに――」
「あはははは、おれは、酔っぱらう奴は大嫌いじゃ。」
「いや、礼をされて――」
と、このような調子である。冗漫さというものも度を越すと面白い。これで人生は退屈しないのだ。間もなく、一人がその場へ眠ると、次ぎも眠った。私は眼が冴えいよいよ蚤との苦闘はこれから始まるところだが、この百ヵ日にあまる無益な苦しみは、想像を絶して苦しい私の劇だ。私は、今は蚤のことあるばかりで退屈をしない模様である。
十一月――日
祝いがつづいた二日目、隣家の宗左衛門のあばは、軒の葱《ねぎ》をひき抜きながら、
「あーあ、退屈だのう。」
とそう呟くのが、私の立っている縁側まで聞えた。二日目にこの寡婦は、もう遊ぶことに退屈しているのだ。この家の裏の家では、今日は、私のいる隣組の娘たち全部と、若い嫁たちが集って、持ちよりの品で一日自由に食べくらし、遊び暮す。当番に当っているその家から、賑かに出入する娘らの声がよく聞える。娘たちの娯楽といえばた
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