降りこむ紅葉の山越え、魚を売りに来る。海の色の乗り越えて来るような迅さで、鰈《かれい》や烏賊《いか》、えい、ほっけを入れた笊籠はどこの家の板の間にも転がり、白菜の見事な葉脈の高く積っているあたりから、刈上げ餅を搗く杵音がぼたん、ぼたん、と聞える。白む大根の冴えた山肌、濡れた樹の幹――
由良の老婆の利枝は稲刈に出払っている久左衛門の家の食事万端を一人でしており、
「もう由良へ帰らずに、うちの嫁になってくれんかの。」と調法がられている。
久左衛門家のせつは婿の田舎へ母につれられて二泊して帰って来ても、また婿も一緒である。二人は結婚式も済まさぬのに寝室を一つにしているらしい。のんきな皆の中で、これには利枝だけがいらいらして、参右衛門の炉端へ逃げて来てはこう歎息する。
「おれらの嫁のときは、羞しくて婿と口もきけなかったのに、あの子は何という子だろうのう。ぺちゃくちゃ婿と喋ったり、今ごろから二人で一緒に散歩したり、部屋も閉め切って、一日二人が中から出て来やしない。式もあげずに何をしてるものだかのう。」
戦死した自分の子の幻影が泛ぶのであろうか。老婆は一晩愚痴をこぼしづめだ。そのため参右衛門の妻女はいつまでも眠れないで弱りきり、今度は私の妻に睡眠の不足を訴えるが、新婚の夢の描く波紋はどうやら私の胸まで来てやっと止ったようである。私にはも早やそんなことは無用のようだ。
十一月――日
来る日も来る日も同じことを繰り返している農業という労働。しかし、仔細に見ていると少しずつ労働の種類は変化している。もう忘れた日にして置いた働きが芽を伸ばし、日日結果となって直接あらわれて来ているものを採り入れ、次ぎの仕度の準備であったり、仕事にリズムがあって倦怠を感じる暇もない。他に娯楽といっては何もなさそうだが、そんなものは祭だけで充分忍耐の出来ることにちがいない。特に都会化さえしなければ農業自身の働きの中に娯楽性がひそんでいそうである。
私は東京から一冊の本も、一枚の原稿用紙も持って来ていない。職業上の必需品を携帯しなかったのは、どれほど職業から隔離され得られるものか験しても見たかったのだが、ときどき子供の鞄の中から活字類の紙片が見つかると、水を飲むように私は引き摺り出して読んだりする。中に抽象的な文章があったりすると急に頭は眠けから醒めて、生甲斐を感じて来る。も早や私には観念的
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