ついてゐなかつたので三人は光つた広い板間の控へに坐つて次のを待つた。
 子は父が莨を口に銜へたのを見ると自分のマツチでそれに火を点けた。が、父に媚びてゐる自分の気待を両親に見ぬかれてゐるやうな気がしたので、父の莨入から自分も一本ぬきとつてすつた。
 周囲に群衆がつまつてゐるためか三人は黙つてゐた。間もなく踊のきり[#「きり」に傍点]がついた。群衆は控へから桟敷の方へ動いて行つた。
 三人が土間の中程へ場をとつた時、母は父と子の間へ二人より少し退き加減に坐つた。
 幕が上ると同時に左手の雛壇から鼓の音がして、両側の花路から背の順に並んだ踊子の群が駆けるやうに足波揃へて進んで来た。夫々手に花開いた桜の枝を持つてゐる。最初には踊子らの顔が、どれも同じやうに綺麗に見えた。
 母は不意に子の肩を叩くと後を向いて囁いた。
「光、それそれ、あの西洋人の顔をお見いな、面白さうな顔をしてゐる。」
 子は舞台の反対の桟敷に居る二三の外国人の顔を見た。が、別に彼等の顔から母の云ふ程な表情を感じなかつた。で、又急いで踊子達の顔に見入らうとした時、ふと自分の眼を後へ向けささうと努める母の気持ちを意識した。
「なアをかしい顔をしてゐるやらう。日本人は奇妙な踊をするもんやと思うて見てゐるのやらうな。」
 子はただ「ふむ、ふむ」と答へておいた。が、母が正面に向き返るまで自分からさきに舞台の方を見ることが出来なかつた。
「あれきつと自分の国へ帰つてから、日本で面白いものを見て来たつて云ふのやな。」
 さう云つてから母は漸く踊子の方を向いた。子はまだ故意に後を向いてゐた。が、見るものが無かつたので、その時間を利用して群る人々の顔の中から目立つた綺麗な顔を模索した。
 一度舞台から消えた踊子の群は再び手拭を持つて、ゆるゆると踊り乍ら両側の花道から現はれた。
 すると母は子の方へ顔を寄せて又囁いた。
「あの子お見、可愛らしいことなア、人形さんのやうや。」
 子は母が胸の上で指差してゐる踊子に見当をつけてよく見ると、最後から二番目のまだ小さい杓子顔の雛妓《おしやく》であつた。子はその顔から何処か良い所を捜さうとつとめてみた。そして時々眠さうな眼をすることが可愛いと強ひて思つた。
「後から二番目?」
「そやそや、可愛らしいやろ」
「うむ。」と子は言つて見付けておいた美しいいま一人の踊子を見ようとしたが、母の看視を思ふと図太くその方許りを見続けることが出来なくなつた。彼は母に知れるやうにあちらこちらに眼を置き変へた。そして、右手の雛壇の隅で長唄を謡つてゐる年増の醜い女を見あてたとき、ここならよからうと思つて、眼の置き場をそれに定めた。直ぐ首条に疲れを感じたが耐へてゐた。彼の横に彼の年頃の学生が一人自由に踊を眺めてゐる。彼は羨しく思つた。
 父は初から絶えず舞台の方を向いてゐた。子は父を有りがたく思つた。
 間もなく踊は済んだ。まだ早かつたので電車通りに出てから三人は街を見て歩いた。子は下駄を引摺るやうにして黙つて親等の後に従いた。歩き乍ら、恋人を抱いた時の自分の姿を思ひ浮べた。今母の眼の前で、傍を通る少女を一人一人攫へてキツスしてやらうかと考へた。
「もうし、光がね万年筆が欲しいんですつて。」と母は不意に良人に云つた。
「入りませんよ。」と子は強く云つて母を睥んだ。
 父は黙つてゐた。
 母は子の方を振り向いて、
「お前欲しいつて云うてたやないの。」と笑ひながら云つた。
「そんなこと云はない。」
 が、実は言つたと子は思つた。
 ある文房具店の前まで来た時、父は黙つてその中へ這入つていつた。子は万年筆を手にとつてゐる父を見ると、急に父が恐ろしくなつて来た。



底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「御身」金星堂
   1924(大正13)年5月20日発行
初出:「時事新報」
   1921(大正10)年1月5日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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