通ると、父は体を少し起した。
「よ光、一人で見て来いや。もう今夜で終ひやぞ。」
「もう雨が降るしよしませう。」
子はさう云つて二階へ来ると窓の敷居に腰をかけた。下腹から力が脱けてゐた。
空はそれなり雨を落とさずに何時の間にか薄明かるくなって来た。その下に東山がある。その向ふに京都の街がある。
二十分程して、他所行きの着物を着た母が腰帯のまま二階へ来た。行くんだなと子は思ふと、気が浮いて、
「何処へ行くの?」と訊いた。
母は黙つて押入を開けると、下唇を咬んで蒲団の載つてゐるまま長持の蓋を上げた。
「行くの?」と子は又聞いた。
母は黒く光つた丸帯を出して、
「お父さんつて雨が降つてるのに、」と呟くと、子の顔を一目も見ずに下へ降りて行つて、階段の中程の所から
「用意お仕や。」と強く云つた。
子は腹を立てた。「行くものか。」と思つた。
暫くしてから、母は帯をしめて又二階へ来た。
「まだ用意おしやないの。」
「行きたかないよ。」
母は黙つて子の顔を眺めてゐた。
「お母さんとお父さんと行くといい、俺は留守をしてゐるよ。」
「今頃そんなことを言うて……」
「やめだつてば。」
「可笑しい子。」
母は薄笑をし乍ら押入から子の着物と帯とを出した。子は東山の輪郭に沿うて幾度も自分の顋を動かしてゐた。
「早やう。」と母は云つた。
子は母の出して呉れた着物を一寸見て又眼を東山に向けた。母はそのまま立つて子の顔を見てゐたが「可笑しい子やないか、」と呟くと下へ降りて行つた。
子はソツと着物を弄つてみた。が、下へ降りた時母の手前を考へて呼ばれる迄着返ずにゐてやらうと思つた。すると直下から母が呼んだ。子は強ひて落ちつくために返事をせずに又敷居へ腰を据ゑた。下から声がする。
「お父さんが待つてゐやはるのえ。」
子は父を思ふとそのまゝの容子《なり》で下へ降りた。
「まだ着返てやないの、」と母は顔を顰めた。
「これでいいよ。」
「ああそれで好えとも。」さう云つて父は煙草入に敷島を詰めた。
子は父の前では拗ねる気がしなかつた。三人は外へ出た。
母が空を見上げて「降るに定つてるのに、」と云ふと、父は、
「何アに。」と云つて停留所の方へ歩いた。
祇園へ着いた時にはもう真暗であつた。歌舞練場と書かれた門の中へ父は這入つていつた。そこに踊がある。二人はその後に従いた。踊のひときりがまだ
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